一方、コントでは原則としてそれが許されていない。コントは演劇の一種であり、物語の中で役柄を演じているという前提があるので、観客と直接会話したりすることが形式上認められていない。それをやるとコントの世界観を崩してしまうことになる。

 ただ、厳密に言うと、コントを演じる芸人が観客の存在を全く意識してないわけではない。観客の反応によって、芸人は声の大きさや会話の間合いやテンポを微妙に変えたりしている。しかし、表面上はそこに観客がいることとは無関係に物語を進めなければいけないとされている。

 そんな漫才とコントの定義に立ち返って考えると、ダウンタウンの漫才はほかの芸人の漫才以上に「生もの」という感じが強かった。ほとんど台本はなく、即興でやり取りをしているので、ツッコミ役の浜田雅功は、ボケ役の松本の話を観客と同じ立場で初めて聞くことになる。そんな中で、浜田は緩急自在のツッコミや客イジリによって、客席の空気を巧みにコントロールしていた。松本、浜田、観客という三者の相互作用によって「漫才」という空間が作られているような感じだった。

 一方、『キングオブコントの会2022』で披露されたコントでは、世界観がしっかりしている分だけ、松本が見せたい笑いのエッセンスが抽出されているような感じがした。「落ちる」と題されたこのネタでは、松本含むバンドメンバーがチェッカーズの『俺たちのロカビリーナイト』を演奏していると、途中のコーラスでシャウトする場面で、さまぁ~ずの大竹一樹が演じる男がなぜかその場で深い穴に落ちていってしまう。穴に落ちた大竹は気まずそうに戻ってくるが、その後も何度も穴に落ちることになる。

 松本は、この曲を耳にしたときにたまたま穴に落ちるところを想像して、このネタを思いついたのだという。ここで、なぜ落ちるのか、そこにどんな意味があるのか、といったことを問いかけても意味はない。ただ、落ちる。そこが面白い。

 そんな見る人の感性に訴える笑いを、どこまでも深く掘り下げて追求していけるのが、コントという芸の面白さである。

 松本人志は、あらゆるジャンルの笑いに精通したジェネラリストでありながら、それぞれの分野を高いレベルで極めたスペシャリストでもある。新作の漫才とコントでは、そんな松本が生み出す笑いの深い部分に触れることができた。

 当たり前のようにダウンタウンが日常的に劇場で漫才を演じていて、テレビでコントをやっている。そんな光景ももはや夢物語ではないのかもしれない。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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