浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授
浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授
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 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

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 「あなたの不安が私の平和を脅かす」。かのロナルド・ドーア先生の著書の中にこの小見出しが登場する。(『働くということ~グローバル化と労働の新しい意味~』<石塚雅彦訳・中公新書刊>) 

 ドーア先生は、この小見出しをもって、労働を巡る理不尽や不公正がもたらす憤怒の怖さを示唆している。差別と貧困によって引き起こされる紛争が、世界平和を突き崩す危険性について論じている。 

 この問題意識は的確であり、重要だ。人間は不当な扱いを受ければ反発する。この反発が革命的なエネルギーを帯びれば、そこに紛争の余地が生じ、平和が脅威にさらされる。平和を堅持したいなら、人は人を尊重しなければならない。これは実に真っ当な認識だ。異論をさしはさむ余地など、ありはしない。 

 ただ、今日の状況下で、この「あなたの不安が私の平和を脅かす」というフレーズを目の当たりにすれば、どうしても、思いはウクライナに及ぶ。ウラジーミル・プーチンの不安が、ウクライナの平和を壊した。 

 プーチン大統領は、何がそんなに不安なのか。隣国の平和を破壊し尽くさなければ安心できないほどに、何を恐れているのか。何が彼をそこまで怯(おび)えさせるのか。 

 様々な分析が提示されている。様々な要因が挙げられている。歴史的要因。地政学的要因。覇権主義的要因。安全保障要因。いずれも、一理ある。それなりの妥当性があると思われる。だが、いずれにせよ、彼の不安は狂気じみている。いかなる要因が働いているにせよ、大なる者の不安が小さき者の平和を脅かすことは許されない。 

 ウクライナは決して小さき国ではないが、ロシアは間違いなく巨大だ。巨人には巨人の魂が備わっているのではないのか。自分より小さい者の存在が不安の種になったりはしないはずではないのか。懐の大きいところ、ゆとりに満ちているところ。それが巨人の巨人たる所以(ゆえん)ではないのか。 

 だが、思えばそうでもない。巨大な中国も、小さな台湾と香港を見るたびに不安に駆られる。彼らの平和を脅かそうとする。神よ、巨大なる者たちのちっぽけな魂を救いたまえ。

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

AERA 2022年4月25日号