「私は市役所の元職員だから、顔見知りの人が多くて、いつも荷物をチェックされない」
Kさんなら顔パスで荷物の運搬ができると、友人は武器運搬に利用しようとしていたのだ。
恐ろしくなったKさんはマリ軍の知人に助けを求めた。その知人の指示で、荷物だけをバスに載せ、乗車はしなかった。そして、荷物を載せたバス番号を知人に伝えた。バスはバマコを出た後にマリ軍が止め、バスもろとも火をつけて炎上させたという。
■「逃げろ、追ってくる」
一度ばかりか、二度までもテロ組織の活動に加担してしまったことから、Kさんは身の危険を感じた。マリ軍の知人から「逃げろ、武器を燃やされたから(テロ組織は)追ってくる」と忠告された。
すぐにKさんはアメリカ大使館に助けを求めたが、「手続きに時間がかかる」と言われて諦めた。次に駆け込んだのが、日本大使館だった。ちょうどその時期、現地の治安悪化を理由に、在マリ日本大使館は一時的に閉められようとしていた。
「職員が荷物をまとめていて、マリは危ないから閉めると言っていた。私が難民申請をお願いしたら、職員は『今は何もできないけど、手紙を書いてあげる』と。マリの隣にあるセネガルの日本大使館に向けた手紙を書いてくれた」
その日のうちにKさんは、手紙とパスポートを握りしめてセネガルに行った。在セネガル日本大使館に手紙を見せると、すぐに3カ月間のビザを発給してもらえた。
出国準備のため、マリに戻った。実はKさんにはこのとき、別れた恋人との間にできた1歳の息子がいた。自分の母親に預けていた。マリに戻ると、家にテロ組織からの追っ手が来ていた。
「(仕事を手伝ったのが)学生時代の友達だったから家も家族も知られていた。危なかったから、家族で引っ越した」
一人で日本に逃げてきたのは、テロ組織に追われる危険な逃亡に家族を巻き込みたくなかったからだった。生活が安定したら日本に呼んで一緒に暮らしたいと思っていた。
■日本に来て知った「現実」
Kさんはマリを出国し、13年4月に成田空港に到着。そこで、入国管理局(現・出入国在留管理局)に止められた。日本での滞在先や身寄りがなかったからだった。Kさんは言う。
「ビザは持っていたよ。入管から『成田を出たらどこへ行くのか』と聞かれて、私は行き場がない『難民だ』と答えた。そしたら、入管は『帰れ、帰れ』と言っていた」