ただ人生とはアンビバレント両面性があり、曖昧なものです。一人の人間のなかにいい人と悪い人が存在し、絶対的な悪も絶対的な善もこの世の中には存在しません。リューダはあるできごとから、自分が真実だと信じてやまなかったものが揺らぎ、壊れてしまいます。自分の信じているものが打ちのめされたとき、人はどういう状況になるのか。そのことへの興味からこの物語が生まれました。人間の心について、掘り下げたかったのです。
私たちの親の世代にはイデオロギー的に厳格な人がたくさんいました。彼らは「自分たちの手で社会を作っていくのだ」というピュアな思いを持っていた。日本の同じ時期においてもそうだと思います。いま振り返ってみると間違っていたかもしれないけれど、当時はある信念を心から信じ、それを追って行動していたのです。私は彼らの行動をジャッジするようなことはしたくありませんでした。すべての人を「人間」として描きたかったのです。
――社会的な題材を扱っていても、映画は「アート」であり、「人間」を描くものだと捉えていらっしゃるのですね。
その通りです。偉大なるアートには日本の作品も多いですよね。黒澤明監督の作品や、小津安二郎監督の「東京物語」もそうです。彼らの作品はすべてが人間の存在についてのアートだと思っています。人間がなぜ愛し、生き、慈しむのか。人間を動かしているものがなにか、という探求です。私も映画に取り掛かるたびに、人間というものを理解しようという思いで望んでいます。毎回うまくいかないと感じていますけどね(笑)
――監督はアンドレイ・タルコフスキー監督と大学の同級生で「僕の村は戦場だった」(62年)などの脚本を共同執筆されています。タルコフスキー監督は84年に西側に亡命されましたが、監督はロシアで創作を続けていらっしゃいます。
私も1980年代にはアメリカで10年ほど仕事をしました。でもその後、ロシアに戻ったのです。80年代初頭のハリウッドは、私からすればまだシリアスで真剣な映画作りをしていたと思います。しかしその後はティーンエージャーの心を追いかけることにばかりに熱心になり、私や私の友人であるフランシス・F・コッポラやマーティン・スコセッシのような監督は苦境に立たされてしまった。彼らは彼らなりにうまく居場所を作り出してはいったけれど、私は商業性を求められる映画ばかりを作るのは無理だと思い、ロシアに戻ったのです。それでもロシアにいながらアメリカのテレビシリーズを撮ったり、イタリアで作品を作ったりできていますから、アメリカで学んだことは大きかったですね。