写真家の田沼武能さん
写真家の田沼武能さん
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 世界の子どもたちや武蔵野の面影を写すことをライフワークとし、写真界の地位向上にも尽くしてきた写真家・田沼武能さんが1日、東京都中野区の自宅で亡くなった。93歳だった。生前、田沼さんがアサヒカメラ編集者だった著者に語っていた「戦争と平和」「師匠・木村伊兵衛からの言葉」などを改めて振り返る。

【写真界の重鎮たちと談笑する在りし日の田沼さん】

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「命あるかぎり、世界の子どもたちを撮り続けたい」

 生前、筆者にそう語っていた田沼さんは少年時代、東京大空襲を体験した。忘れられないのは全焼した家の前にあった防火用水槽の中で直立不動のまま焼け焦げていた小さな子どもの姿だ。それが近所の寺で目にしていた地蔵の姿と重なった。

「炎にあぶられたお母さんが子どもを熱さから逃すために水槽に入れたのではないでしょうか。なんともいえない切なさ、無常さを感じました」

 それが原点となり、田沼さんはとりわけ恵まれない環境にいる子どもたち写すことに熱心だった。

 ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんとともに紛争地域に暮らす子どもたちの取材を重ね、「国が平和でなければ、家族の幸せも子どもの幸福もありえない」と訴えてきた。

 しかし、田沼さんが本格的に子どもの写真を撮り始めたころ、周囲の目は冷たかった。

「そんなものを撮ってどうするんだ、写真集を作っても売れないからやめろ、って言われましたよ。子どもなんか、プロの写真家が撮るものじゃないと、みんなばかにしていたんですね」

 しかし、田沼さんは諦めなかった。「何を撮ろうと、ぼくの勝手でしょう」と、周囲の視線をはね返した。いつも脳裏にあったのは、師匠である木村伊兵衛氏から浴びせられた痛烈な言葉だった。

「いまみたいな仕事をしていたら、必ずつぶされる。自分の写真を撮らないとチューインガムのように捨てられるよ、って」

■売れっ子の写真家になったが

 29年、田沼さんは東京・浅草の写真館に生まれた。47年に東京写真工業専門学校(現東京工芸大学)に入学。アルバイトをして手に入れた二眼レフで街角の風景を撮り始めた。

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酒も飲まずに貯金してライカを買った