当時、街には子どもがあふれていた。チャンバラをする子ども。赤ん坊を背負い子守をする子ども。駅には戦災孤児が住んでいた。
「そんな子どもたちに自然にレンズを向けていましたね。振り返ってみれば、それが私のいちばん大きなライフワークの始まりですよ」
写真学校を卒業後、49年にサンニュース・フォトスに入社。上司であった木村氏の助手を務めるようになる。
「ただ、助手といっても撮影中は手伝うことは何もなかった。かばん持ちをしようにも木村はカメラバッグなんて使っていませんでしたから」
木村氏は休日になるとライカ1台を持って出かけ、街角で軽快にスナップ写真を撮影した。
そんなライカの軽快さにほれ込んだ田沼さんは酒も飲まず、喫茶店にも行かず、金をためた。師匠には「趣味が倹約貯蓄の田沼」と笑われた。ようやく進駐軍から横流しされたライカを手に入れた田沼さんは変貌する東京を撮影した。でも、足が向くのは決まって下町。そして気づいてみれば、子どもたちの写真を撮っていた。
53年、サンニュース・フォトスはあっけなく倒産してしまったが、田沼さんは「芸術新潮」などで活躍し、売れっ子の写真家になっていく。ところが、ある日、先に書いたように、木村氏に手厳しく忠告され、ショックを受けるのだ。
「なんとかしなければ、と思いましたね。でも豊かな暮らしは捨てがたいし……、悩みました」
■ドル建ての給料をすべて子どもたちの写真に
ちょうどそのとき、願ってもない話が舞い込んできた。アメリカの「ライフ」誌で働かないか、という誘いだった。
「社員になると自由がきかないし、撮影した写真の著作権も自分のものにならない。それで契約写真家になることにしたんです」
ライフの仕事を始めた66年当時、ドル建ての給料は大きかった。1年のうち、3分の1だけライフの仕事をこなせばそれまでの生活を維持できた、と打ち明ける。
しかし、田沼さんは給料のすべてをつぎ込み、「世界の子どもたち」を撮り始めた。
「あのころ写真集『ザ・ファミリー・オブ・マン』を見てものすごく感動しましてね。『ファミリー・オブ・チルドレン』を撮ろうと思ったんです」