フランスをはじめとして、アメリカ、インドネシア、ドイツ、タイなどを訪ね、子どもたちの姿をカメラに収めた。
しかし、師匠にその写真を見せても、いつも無反応だった。
「でも、木村が亡くなった後、人づてに『田沼はいい仕事をしているよ』と言っていたと聞き、ほんとうにうれしかったですね」
84年、田沼さんは「黒柳徹子さん、ユニセフ親善大使に任命される」という新聞記事を目にすると、すぐに彼女に連絡をとった。
「ずっと子どもの写真を撮り続けてきましたから黒柳さんにお会いして、すぐに意気投合しました。いっしょに行こうということになりました」
■終活も明るく、前向きだった
ユニセフで訪れたのは干ばつや貧困、内戦に苦しむ国々だった。第1回目のタンザニアは20世紀最悪といわれる飢餓に見舞われていた。田沼さんは干上がった川底に穴を掘り、底にたまった水をすくい上げる小さな子どもたちにレンズを向けた。
黒柳さんとともに訪れた国はアフガニスタン、コンゴ(旧ザイール)、シエラレオネ、ジンバブエ、ニジェール、モザンビークなど約40カ国にのぼる。2週間ほどの取材費用はすべて自費で、国連機にも料金を払って搭乗した。
「宿泊場所は小さな村の宿であればましなほうでテントに泊まることもありました。冬のアフガニスタンでマイナス20度、夏のニジェールは50度近くになりました」
95年、田沼さんはより多忙を極めていく。プロの写真家約1700名が在籍する日本写真家協会の会長に就任したからだ。昼は理事会、委員会、他団体との会議、その他もろもろの仕事をこなし、夜は会員の写真展や出版パーティーに顔を出す。さらには東京工芸大学の教授を務め、フォトジャーナリズムを講義した。
それでも、なんとか日程をやりくりして海外取材に出かけた。1年間で3回もアフガニスタンを訪れ、難民キャンプや学校を回ったこともある。
15年、会長職を退き、昨年秋には妻・敦子さんと共著で『棺桶出せるか~田沼家の快適リフォーム顛末記』(小学館)という風変わりなタイトルの本を出版した。
<トーチャンの唯一の希望は「この部屋から棺は出せるのか? ベランダからつるして下ろすなんて、ごめんだぞ!」>
最初、タイトルにぎょっとしたのだが、ページをめくると、田沼さんが明るく、前向きに終活をしていたことが伝わってくる。会うたびにべらんめえ口調で話してくれた、田沼さんの気さくな人柄が思い浮かんでくる。(アサヒカメラ・米倉昭仁)