文芸評論家・長山靖さんが『愛のぬけがら』(エドヴァルド・ムンク著 ムンク美術館原案・テキスト 原田マハ訳、幻冬舎 1870円・税込み)を読んだ。
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ムンクの絵には一度見たら忘れられないインパクトがある。不安な心理状態を映し出したかのように渦巻く空の下、耳を塞ぐ人物を描いた『叫び』や、抱きとめた男に食い込むように顔を向けた『森の吸血鬼』、死の影を濃厚に宿した『マドンナ』など、その作品の多くに不穏と恐れが脈打っている。まるで悪夢のような、少しばかり甘美なまどろみを伴った恐怖。
偉大な画家が出現するたび、世界は新たに生まれ変わる。その人の作品にふれ、その人が描き出す世界に息をのんだ前と後とでは、見えるものがまるで違って感じられるという体験をした人なら、その不思議な感覚を体感で知っているだろう。私たちは画家の筆先に導かれて、新しい視覚へと踏み込むのだ。エドヴァルド・ムンクは、そうした偉大な画家の一人だ。
私がムンクの言葉にまとまってふれたのは、スー・プリドーの『ムンク伝』(木下哲夫訳、みすず書房)をとおしてだった。幾多の困難に見舞われたムンクの生涯と、忍耐強い創作の過程を克明に描き出したこの評伝には、ムンク本人の日記や書簡がふんだんに引用されていた。そこには絵から受ける不安を掻き立てるような混乱したイメージとは異なり、理知的で分析力ある画家の思考があった。
創造には理論がある。理論がないものに美は創り出せない。しかし画家や彫刻家が、その理論を言葉にしているとは限らない。彼らは美の理論を、言葉ではなく自身の「作品」として明らかにする存在だからだ。しかし創り手には理論があっても、それを読み解く理論が鑑賞者の側にはないことが多い。だから私たちはとりあえず「天才」という言葉を使うのだ。
本書はそうした天才の一人であるムンクの画文集だ。言葉と絵の双方が収録されている。絵の選択は、若い頃に古典的技法で描いた自画像から、先にふれたような不穏な作品、風景画や肖像画の数々まで。意外と明るい色彩の作品が多く取られており、ムンクの暗鬱なイメージを改めて、幅広い作風に理解を広げて欲しいという意図が窺われる構成になっている。