春夏の甲子園との違いとは?
「センバツ」の“使命”を考える

 夏の選手権大会との違いとは何か? 春は選抜、夏は予選制、それ以外に何が違うのか? 「甲子園ではトーナメントで優勝を争う」、それは全く同じだ。今回のガイドラインにも、センバツが夏とどう違うのかは表現されていない。

 渡辺氏は「いいチームを」と繰り返し述べているが、この文脈で読み取れる「いいチーム」とは結局、「全国から優秀な素材を集めたタレントぞろいのチーム」ではないか。今後もそんなチームを奨励することが、高校野球の未来を明るくするとまだ思っているのか?

 夏の大会との違いを言うなら、勝負を価値とする選手権に対して、選抜という独自の主体性を持つ春の大会が何を最大の価値とするか。大会の価値や方向性を明確に提示することにこそ、新たなセンバツの使命と、未来へ生きる道があるのではないだろうか。

 政治経済の分野では天下国家を見据えて取材・発信を重ね、崇高なジャーナリズムにまい進しているはずの新聞記者やその経営陣たちが、なぜこうも野球やスポーツとなるとお粗末な利権維持に固執し、せっかく自分たちが保持している「高校野球を本質的に改革する既得権」まで放棄するのか。

 見方を変えれば、真夏の猛暑を顧みず、まだ猛暑下の開催を強行する時代遅れで危険ともいえる朝日新聞に対して、毎日新聞は進取の気性を持ち、一部のエリート球児だけでなく、全ての高校球児に目標とやりがいをもたらす新たなセンバツのビジョンを示すことで、大いに社会的な使命を果たすことだってできるはずだ。

 センバツには、メディアでは普段語られない大きな弊害がいくつもある。その一つは、「自分たちに服従しなければセンバツに選んであげないよ」という無言の圧力、高校野球のあしき支配関係の基盤になっていることだ。私はかつて、東京都大会の改革を上申した、主に都立高校の若い監督たちが、「そんなことを言うなら、秋の都大会でベスト8に入っても21世紀枠で推薦しないぞ」と、暗に圧力を受けた話を聞かされた。

 スポーツ組織にありがちな上下関係、支配の構造が日本高等学校野球連盟(日本高野連)には根強く存在する。その重要な切り札が「選抜」という独自の選考方法を取る春のセンバツなのだ。

 今回のガイドラインを読むと、その支配体制(主催者の権力)がいっそう強化された、と感じられる。【基本原則】で示された最初の3項目は、いずれも選考委員の絶対的な権限を保障したものであり、表現が曖昧だからいっそう選考委員の主観が容認される形になっている。4つ目にようやく「説明責任」を明示しているが、「選出の理由を説明できるように努める」ことさえすれば、仮に第三者と意見が相違していても、責任は問われない形になった。大会は基準をより曖昧にしたから、責めようもない。

 今春の聖隷クリストファーを例に取っても、「秋の大会はあくまで資料の一つですから、準優勝校が選ばれなくても問題ありません」「【評価のポイント】のところに、複数の学校の評価が並んだ場合、できるだけ多くの都道府県から出場できるよう地域性も考慮する。とあるので、今回は静岡から複数選ぶのでなく、岐阜県からも代表を選びました」と、すんなり答えることができるようになった。

 とんでもないガイドラインで、パワハラ一掃の世相の中で全く自省も改善の認識もない。

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「センバツ基準改革案」を緊急提言