で、何が言いたいかといえば、このライブはタイミング的にも奇跡みたいなものだった、ということだ。10周年で、などと言っていたら、いや、3カ月遅くても実現していなかったのだから。

 そして、いうまでもなく、この時期は明菜にとって人生の曲がり角である。大晦日に近藤同席のもと、復帰会見を開いたものの、翌90年、ふたりは破局。この年の7月には復帰作「Dear Friend」がヒットして、オリコン年間ベスト10にも入ったが、91年からは低迷期が始まった。

 結局のところ、恋人の自宅でその留守中に自殺未遂してしまうような精神性は、女王の座を長く守り続けるには不向きだったということだろう。

 しかし、このコンサートでの明菜はまぎれもなく女王だ。筆者も前出の文章のなかで、能の世阿弥が提唱した「萎れの美」を引き合いに出しながら、こんな賛辞を送っている。

「圧倒的な魅力を誇示するかのように輝いていた季節を過ぎ、名のある陶器のように渋い光沢を打ち出した彼女は、かつてよりも一層魅力的だ」

 このような評価をしたのは当時、聖子が迷走していたことも大きい。中途半端な米国進出で、国内向けのパフォーマンスがないがしろになっていた。実際、89年11月に出したシングルが2位にとどまり、オリコンの連続首位という記録も途切れるのである。

 一方、明菜も迷走気味ではあった。86年あたりからセルフプロデュース志向が強くなり、賛否両論を生むことに。付き人の女性を「お母さん」と呼んで信頼しすぎ、のちに暴露本を書かれたりもしている。何より危惧されていたのが体調面で、このライブが春に放送された際にも、そのやつれた雰囲気を心配する声がネットで見受けられた。

 ただ、歌唱力などのレベルは落ちていない。女王があまりにも幸せそうな絶頂ぶりを示すとかえって鼻につくので、心身がやや不安定に見えることがほどよいバランスを生んでいたともいえる。それゆえ、世阿弥が「花」よりも上位に置いた「萎れの美」が感じられるとして評価したわけだ。

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