「1990年代に当時の“老人ホーム”に入居してきた明治生まれのおじいちゃんは、自分の家・田畑・財産を身を挺(てい)して守ってきたという自負がある。また、自分の時代になるまでは上の者に仕えて逆らわずにやってきた、ようやく自分の時代になった、という気持ちもある。そのために、ホームに入れられることを強く拒否して、入居してきてもずっと怒っているという人も多かったです。でも時が流れて終戦(1945年)前後生まれの昭和のおじいちゃんになると柔軟になって、家族のことを考える人が増えました。育った時代によってもホームについての考え方は異なるものです」(高口氏)
■ホームでの“今”の幸せを実現してあげる
子どもは、親が最期まで平穏で快適に過ごせることを第一に願う。親はできるだけ子どもの負担にならないように、でも子どもたちが満足できるように静かに最期を迎えたいと思う。どちらの気持ちにもウソはないとしても、家族であるが故の難しさがあるようです。
子ども側は、お父さんは「わかった」と言ったけれど本心ではないと思う、お母さんは「ホームに入るよ」と言うけれど、以前は「この家で死にたい」と言っていたはずなどと、親の言葉の裏を読み取ろうとします。一方、親の側は、息子は「兄弟と妻とでこの家で面倒をみる」と言ってくれるが、無理しているのではないか、「ちょうど早期退職しようとしていたの」という娘の言葉はウソではないか、などと、子どもの言葉を疑ってかかります。もちろん、善意からではありますが、互いの気持ちを忖度(そんたく)し始めたらきりがありません。さらに親族やケアマネジャーなどの第三者が加わると、それぞれの気持ちが揺れ動き、そうこうしているうちに、おじいちゃんもおばあちゃんも、本当に自分が望むところがどこなのか、わからなくなってしまいます。
「極論すると、家族がいなければ、ホームに入るにしろ自宅で最期を迎えるにしろ、すんなりと自分の意思を通せるかもしれません。しかし家族だからこそ、言葉の真意を読み取ってよりよい選択をしてあげようとするわけですから、忖度するなというほうが無理な話です。そういうときは、スタート地点に立ち返り、選択の理由を見直すことをおすすめします。そして、100%の満足はないことを思い出し、あきらめる点はあきらめて、そのなかでの最善を見つける努力をしてほしいです」(高口氏)