次の写真は、複線区間の終端部で7系統八幡橋行きの到着を待つ中央市場行きの市電。写真のように横浜市電のサボは系統番号の下に始終点と経由地が大きく明記され、とても見易かった。画面を精緻に観察すると、左端に写る「コーエキ わさび」縦看板の右横に単線区間への進入許可を現示する信号器が確認でき、単線区間の運転保安方法が理解できた。背景の市電が下をくぐる跨道橋が、1917年に敷設された国鉄(現JR)東海道本線の貨物線(通称高島貨物線/鶴見~桜木町)で、東高島~高島貨物駅(当時)の区間に所在した。
高島貨物駅から発車を合図する長緩一声の汽笛が聞こえた。上り貨物列車がやってくるようだ。先ほど市電を俯瞰撮影した跨道橋から東高島駅方向に移動し、D51791牽引の貨物列車にカメラを向けた。同機は1942年の新製配置以来新鶴見機関区を離れず、1970年10月10日には東京~横浜港間で「高島貨物線電化完成記念列車」を牽引している。ちなみに、鶴見~桜木町間の貨物線電化完成は1970年9月15日だった。
市場通いの路面電車
中央市場からの仕入れ客が並ぶ中央市場停留所に到着した7系統の市電が次の写真だ。当日は「ハマのエース」1500型が運行されており、画面右側に万代橋が写っている。
1950年代半ばから1960年代にかけて、中央卸売市場は需要が増え続ける最盛期だった。市中から市場のまん前まで乗り入れてくる市電は、どれも仲買人や商店主など、市場への仕入れ客で溢れていた。
東京でも築地の魚河岸を発着する8系統(中目黒~築地)の都電車内は、仕入れ客が魚を入れた大きな籠を携えて乗車するため魚臭さが残り、一般乗客からは「魚河岸電車」と揶揄されていた。横浜でも、7系統の車内からは築地と同じような魚臭がしたことと推察される。
最後の写真が中央市場停留所を後に八幡橋に向う7系統の市電。前掲の写真では見え辛いが、停留所の右手に側線の軌道が判別できる。貨物電車を併用して運行していた時代、この側線で生鮮食料品の積み卸しをしていたのだろう。前号で掲載した28号などの有蓋貨物電車が活躍した往時が偲ばれる。
画面の中央奥、市電の軌道と直角方向に1982年まで使われた国鉄貨物線の踏切が写っている。この線は1934年に開通した横浜市場貨物駅と東高島を結ぶ貨物線で、開通時の横浜市場貨物駅は山内町貨物駅の呼称だった。
中央市場線は横浜市電の路線縮小の先鋒とし、神奈川線の洲崎神社前~生麦と共に1966年8月1日に廃止され、中央市場の雑踏に通う路面電車の姿は伝説となった。
■撮影:1965年11月30日
※AERAオンライン限定記事