彼女の言葉通り、それは実に「長い物語」である。カナダでようやく決死の亡命を敢行したのは92年10月15日、あの写真から20年も後のことだ。

 ベトナム戦争では、米軍撤退を経て北ベトナムの勝利が近づくにつれ、南ベトナムの人たちが相次ぎ国外をめざした。75年4月の「サイゴン陥落」に際しては、多くの南ベトナム人が避難船に我もと乗り込み、米軍ヘリに追いすがった。戦後、南ベトナムが地図から消えて社会主義体制の新生ベトナムに組み込まれてからも、カンボジアとの戦争による砲撃や、「再教育キャンプ」送りへの恐怖、急速な社会主義化による極度の物不足と貧窮などから逃れようとする「ボートピープル」が数多く出た。

 ほとんど知られていないが、キム・フックさんも実は16歳だった79年、苦しい暮らしに絶望するあまり、両親にも言わず、「ボートピープル」として国外脱出を3回試みたことがある。いずれも海辺で当局に見つかったりして断念した。86~92年にベトナム政府派遣でキューバに留学した末期には、確信犯的にメキシコに旅に出て、「何とか米国境を越えて逃げられないか」と模索したこともある。

 そうして「体制からの脱出」をついに完遂したのが、東側の大国・ソ連も崩壊した後だったとは、多くの人は想像もつかないのではないか。

 それは、彼女がいかに長くもがいてきたかの表れである。米ジャーナリズムがあの写真の「成果」にいわば祝杯をあげ続けた一方で、彼女はあの写真に、様々な形で苦しみ続けたのだ。(朝日新聞記者・藤えりか)

AERA 2022年6月27日号より抜粋