1972年6月8日に南ベトナムでナパーム弾を浴びた際にニック・ウトさんが撮影した一連のネガを初めて見つめるキム・フックさん/6月6日、米ニューヨークのAP通信本社、ニック・ウトさん撮影
1972年6月8日に南ベトナムでナパーム弾を浴びた際にニック・ウトさんが撮影した一連のネガを初めて見つめるキム・フックさん/6月6日、米ニューヨークのAP通信本社、ニック・ウトさん撮影

 軍事大国・米国は、いわゆる反戦の主張には忌避感が漂いがちだが、それでも、非戦闘員の犠牲には悲嘆の声が寄せられる。メディア大国として、その報道にも共感が集まりやすい。

 キム・フックさんは、そうした点を体現してあまりある存在だ。だからこそ、この四半世紀、各地の講演で引っ張りだこで、米メディアも多く取り上げてきた。

ジャーナリズムの「勝利」
勢いづいた反戦運動

 冷戦下、「ある国や地域が共産化すればドミノ倒しのように共産主義が広がる」とする「ドミノ理論」を根拠に米国が介入したベトナム戦争は、戦果を誇りたい軍部が取材をおおむね許可し続けた結果、歴戦のジャーナリストが相次ぎ現地入りし、迫力ある戦闘シーンを写真や動画で報じた。

 それでも、最も弱い存在である子どもが被弾した決定的なショットはそうそう撮れたわけではない。結果、「ナパーム弾の少女」の写真は、米国が初めて敗北した戦争で、米ジャーナリズムがいわば「勝利」した例となる。反戦運動の強力なツールとしても機能してきた。

 記者はキム・フックさんやニックさん、関係する方々を10年ほど前から取材し続け、あの写真から50年となる今年6月8日、『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』(講談社)を上梓した。その目から見ると、米国で彼女を招聘する人たちは大きく三つに分けられる。一つは今回のようなジャーナリスト、とりわけ写真記者。もう一つは、彼女が82年に帰依したキリスト教の信者たち。さらには、ベトナム戦争を経験した米退役軍人だ。

 ただ多くの場合、「あの瞬間に何が起きたか」「あの写真が戦争終結にどんな役割を果たしたか」といった観点が中心となっている。時に、世界の子どもたちを助けるため彼女が立ち上げた財団の活動もテーマになったりするが、あの日以降も続いた彼女の激動の半生の詳細に焦点が当たることは、少ない印象だ。

 イベントでも、こんな一幕があった。

 司会の男性が、壇上のキム・フックさんにこう投げかけた。「あの(写真の)後、カナダに亡命したんですよね」。彼女は首を振り、「すぐ後ではありません。それは長い物語です」。

 彼女の亡命譚の詳細はやはり米国でもよく知られていない、と改めて思った。

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