「定年になったら、妻と一緒に自分の実家で暮らしたいと思っていました。東海地方にある実家はすでに空き家になっていたし、広い庭で家庭菜園でもしながらのんびり過ごしたい、と。妻にもそれとなく伝えていたつもりです」
だが実際に60歳で定年になり、妻に相談すると、妻の答えは「私はやっぱり嫌だわ」だった。
「妻いわく、パートをやめたくない、友達と離れたくない、不便な生活は嫌ということで……。それならしかたがないと週に数日、実家に通って、まずは家の補修をすることにしました。半年後にはほぼ定住し、近所の農家さんに教わって野菜作りをしたり、自宅で旧友と飲み明かしたり。高校時代の旧友と組んでいたバンド活動を再開するために、再びサックスを吹き始めました」
たまに都内の自宅に収穫した野菜を持って戻ることもある。あるとき妻がしみじみと言った。
「あなたは会社員時代、自分のことなどあまり話さなかったけど、今はいい顔をしてる」
Tさんから見る妻もまた、家庭という枠がなくなったせいか、生き生きとしていた。
「それから妻は“いい友達”になりました。最近、聞いたところによると、僕が本気で田舎暮らしに付き合わせようとしたら離婚すら視野に入れていた、と。うちは自然と別居になり、なんとなくいい距離感がつかめるようになったんですが、これはラッキーだったんだと思います」
家事事件を多く担当してきたフェリーチェ法律事務所の後藤千絵弁護士は、離婚の相談で訪れる依頼者には、離婚前の“お試し期間”として卒婚を勧めることがあるという。後戻りできない離婚と違い、婚姻関係を維持したまま別々に暮らし、面倒な手続きはいらない。親権でもめる必要もなければ、周囲の人に伝える必要もない。
「急に切り出された望まない離婚を回避でき、距離を置くことで夫婦関係を見直すきっかけにもなる。離婚に発展する場合でも、別居の実績ができるので離婚裁判でもめにくくなります」