人生の終わりにどんな本を読むか――。路上園芸鑑賞家、ライターの村田あやこさんは、「最後の読書」に『スキマの植物図鑑』を選ぶという。

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 家を出て、最寄り駅までの道のりを歩く時。意識せずともつい目が留まってしまうのは、道のはじっこやマンホールの穴、舗装の境目など、街角のちょっとした隙間からチラリとはみだす植物の姿だ。家の近くにお気に入りの場所がある。街路樹として植えられた桜の木の根元に、ご近所の方がペチュニアやマツバギクなどを植え、自宅の庭の延長のように使っている。そこから1メートルほど離れた舗装の隙間に、「庭」から勝手に旅立ったと思しきマツバギクが生えているのだ。人も植物も、制御のきかない生き物。おさえきれない園芸愛で街のあちこちが緑化されるし、植物も植物で鉢や植え込みといった枠をはみだし、住処を広げてゆく。このように、路上空間を自在に使って営まれる園芸や、路上の一角を住処にする植物たちの姿を「路上園芸」と称し、勝手に愛でている。

 人生の最後に手に取る本は、と考えた時に真っ先に浮かんだのが塚谷裕一『スキマの植物図鑑』だ。この本には、電柱の根元や石垣といった都市空間の隙間で自生する植物の姿が数多く収められている。人間目線だとつい「ど根性」と言ってしまいそうになるが、植物にとって路上の隙間は、意外にも太陽を独り占めできる楽園。別に無理して生えているわけではない。人の都合が優先されがちな街中において、植物は都市に確かに息づく「野生」を浮かび上がらせる存在だ。都市の隙間にひょこっと表出する野生から、人とは違うルールで蠢(うごめ)くパラレルワールドの存在を感じ、人間社会のルールで疲れた自分の心が、ふっと軽くなる。

 植物を観察していると、個体の境目や生と死との境目が、どこか曖昧なところがユニークだ。株分けで増えたり、鉢から舗装の隙間に旅立っていたり、切り株の脇からひこばえが生えていたり。前述のマツバギクも、もし植え込みの中のものが枯れたとしても、近くの路上で息づいていれば、終わりではないとも言える。終わりとはじまりが混ざり合うような、植物の変幻自在な生のつなぎ方に思いを巡らせながら、人生の最後も穏やかに迎えたいものだ。

週刊朝日  2022年7月29日号