『画聖 雪舟の素顔 天橋立図に隠された謎』
朝日新書より発売中
美術の歴史を勉強していると、いちどは「超大物」と正面から向かい合いたくなる。ミケランジェロとかレンブラントとかピカソとか……。「向かい合わねば」という義務感のようなものもあって、室町時代が専門の私にとっては「画聖」と呼ばれる雪舟だった。もう三十五年ほど前、世がバブル経済に踊る直前のころである。
ただし、研究の成果が上がるかどうかは分からない。「大物」についてはすでに多くがなされているもので、雪舟についてもすぐに三百くらいの文献が集まった。彼が描いた作品も、生きている間に書かれた史料も、ほとんどが戦前には整理されていて、そのほとんどすべてに触れる熊谷宣夫『雪舟等楊』(東京大学出版会、一九五八年)、これを批判しつつ書き直された蓮実重康『雪舟等楊新論:その人間像と作品』(朝日出版社、一九七七年)も出ていた。私ごときが付け加えるものがあるのかどうか……。しかし付き合いだしてみると、いろいろな意味で面白く、けっこうやることが残っていた。
まず感じたのは、そもそも「画聖」の人物像が違っているんじゃないか、ということ。たとえば万里集九という禅僧は「少々酒を飲んで尺八を吹き、詩を吟じ和歌を唱して、どっかと坐り込み、筆をとれば水を得た龍のよう、一気呵成に描きあげる……」と雪舟の姿を描き出している。なんとなくこのイメージが行き渡ってゆくのだが、これはよく知られた『荘子』の「解衣般ばく」――王様に呼ばれたのに、裸で足を投げ出して坐っていた画家がいて、それを聞いた王様が「これこそ本物の画家だ」と見抜いたという話――にはじまる「奇人としての画家」のステレオタイプ。酒も唐代の大詩人・李白など芸術家には付きもので、それを雪舟に当てはめただけである。
ちょうどその頃にアメリカに行ったら「ニュー・アートヒストリー」というのが流行っていた。文字どおり新しい美術史で、簡単にいえば、天才たちとその作り出す素晴らしい作品をひたすら礼賛するような語り口を疑ってみる、という風潮である。少々いやらしい態度ではあるが、いま見たような、理想化された姿のままというのもいかがなものか。「それでどうするか」というやり方のひとつに「ソーシャル・アートヒストリー」があって、作家と作品を、彼/彼女らが生き、それらが見られ使われた社会に置き直そうという。
雪舟でいえば、よく知られた中国への旅は「本場の水墨画を学ぶため」といわれるのだが、実際には遣明使という外交・貿易使節に従ってのもの。住んでいた山口の大名・大内氏の出した船に乗ってゆくのだが、基本は団体行動で自由に旅ができたはずはなく、あちらでの事蹟も使節の動きに従ったものが多い。実態は随行カメラマンでもあって、あちらの風景を写すのも「お仕事じゃないか」……。振り返ってみると、雪舟像のほとんどは、彼を賞賛する文章から作られていた。それでは「素顔」は分からないだろう。
絵の方も「画聖なんだから上手くて素晴らしい」という雰囲気があって、いまは国宝になった「慧可断臂図」についてすら「品がないから雪舟じゃない」という意見があった。しかし山下裕二さんが「乱暴力」というように、雪舟の絵は決して上品なタイプではない。パワフルで粗っぽい「自分」が出て、「きれいにまとめる」のは苦手。それでいながら、さまざまな画風を描き分けている。国宝の六点を見ても画風はさまざまで、描かれた場と目的の違いを思わせる。
そんな雪舟の足跡を追っているうちに、彼が生きた世界についての研究は大きく進んだ。遣明使についても、始めた頃には細かなことはもとの史料に当たるしかなかったのだが、次第に細かなところまで論じられ、研究の入門書まででるようになった。彼が住んだ山口や大分、また旅した天橋立などについても同様で、そのなかに置くことで浮かび上がってきたのが、大内氏のスタッフとして動いていた雪舟の姿だった。画僧の旅は、主君の大内政弘のための情報収集の旅でもあり、そこには「文雅」と「政治」が表裏に貼り付いていた。そんな雪舟のさまざまが詰まっているのが、最晩年に描いた「天橋立図」。この本ではそこから始めて、これまでとは違う雪舟像を語ってみた。あくまでも私のストーリーなのだが、仮説としては成り立つと思う。
研究者としては気が引けるので、本には書けなかったのだが、雪舟には夢のなかで三回ほど会っている。残念ながら、細かな内容は目覚めとともに忘れてしまったが、なかなかいいやつだったのは確か。自意識が強いが無邪気で人なつこい、というのが私の雪舟イメージで、これと大内スタッフとして仕事がマッチしたところが面白い。そんな雪舟を探る旅を楽しんで頂ければ幸いである。