今から約1080年前の遠い昔。天慶三(940)年の春分を過ぎたばかりのちょうど今頃。3月25日(当時の暦では二月十四日)、春の風が吹き荒れる下総地方の原野で、日本史上最悪の叛逆者とも、東国鎮守の軍神とも、首都東京の最恐の怨霊とも、庶民のために戦う英雄とも語り継がれる伝説の武者・平将門が合戦の中で命を落としました。歴史上、中央政府への叛逆は数えきれないほど起きていて、その中には何年にも及ぶ深刻で大規模なものも多いにも関わらず、将門の起こした「天慶の乱」は史上もっとも有名な朝廷への謀反劇と言ってもいいものです。しかしなぜ、わずか二か月で鎮圧された比較的小規模な謀反が、千年を超えて語り継がれるのでしょう。平将門とは何者だったのでしょうか。
この記事の写真をすべて見る大悪党?英雄?下総の乱流地帯から将門は登場した
「日本三大悪党」「日本最大怨霊」のどちらにも名を挙げられる、日本史上最悪の悪名を戴く唯一の人物が平将門です。何をした人かはわからずとも、名前だけはほとんどの日本人は知っていることでしょう。では何した人なの?というと、大半の人はよくわからないのではないでしょうか。
平将門は10世紀前半(平安時代前期末ごろ) の朱雀天皇の御世の天慶年間、下総(千葉県北部全域~茨城県南西部・東京都東部・埼玉県東部)を拠点に武力蜂起をした地方豪族。
関東各地の国衙(こくが・地方の国庁)を襲って印璽を収奪、「新皇」=新しい帝を僭称して皇位を脅かしたが天罰が下り討取られた。これが歴史で語られる将門のプロフィールです。
将門に関する一次的歴史資料は、作者不詳の軍記『将門記』(本来の表題は『将門合戦章』とも)ただ一つであり、『本朝尊卑文脈』を除けば後に書かれた文献のほとんどすべては、この一編の書物に拠るものです。『将門記』にはいくつかの写本がありますが、このうちもっとも完全な愛知県の真福寺宝蔵院本も将門の出自や生い立ちを描いたであろう冒頭部分が欠落しており、他の写本も同様です。このため、将門の生地や出生年月日は未だ不明で、諸説が唱えられています。
唯一、『将門記』を元にした『将門略記』に
それ聞く、かの将門は、昔、天國押撥御宇柏原天皇五代の苗裔(びょうえい)、三世高望(たかもち)王の孫なり。その父は陸奥の鎮守府将軍平朝臣良持(よしもち)なり。
とあり、桓武天皇の孫・高望王が将門の祖父であるという系図が記されています。高望王は王族から臣下にくだって平氏を賜り、妻子を伴い上総介として上総(千葉県中南部)に赴き、桓武平氏の祖として東関東一帯に勢力を広げます。
高望王の息子には文献により混淆や重複・異名が見られ、その数ははっきりとはしませんが、将門の戦歴から整理してみると正室に四人の息子、側室に一人の息子があったと考えられ、長男・国香は常陸(南西部を除く茨城県ほぼ全域)大掾、次男・良兼は上総介、三男・良持(将門の父)は下総介、四男・良茂(または良正)は常陸少掾、そして側室の子として遅れて関東に下り、相模国(神奈川県西部)や武蔵国(東京都・埼玉県)の開発に携わった村岡五郎こと良文となります。
九世紀ごろから、都から隔たった僻地の関東では、「凶猾(きょうかつ)党をなし、群盗山に満つ」とも修辞され、俘囚(あずまえびすとも称された辺境人のうち律令中央政府に恭順した者たち)の反乱も頻発していました。
王族の血を引く貴種である平氏や源氏は、それらの俘囚を手なづけ、時に懲らしめ、また収奪から国衙(こくが・地方の国庁)や農地を守る役目がありました。将門自身にも文献に載る書簡などから、皇統の血を引く自分自身の貴種としての出自を強く意識していた節があります。
後に将門の本拠地となる豊田郡、猿島(さしま)地方は川筋の定まらない川が幾筋も流れ、沼地や湿原を形成する生産性の低い土地。将門はそこに集う俘囚たちを集め、その能力を生かして後に武勇を発揮することとなります。
国香・良兼・良茂・貞盛連合となぜ将門は対立したのか
将門は元服直後から、官位を得るために京に上り、藤原時平の弟で朱雀天皇の御世に摂政を務めた藤原忠平の家人(使用人)として十数年間を都で過ごしています。滝口武士(清涼殿裏の滝口に詰める衛士)を任されたこともあったようですが、結局無位無官で下総に戻っています。
父の逝去を受けて帰国すると、下総介だった父の領有地だった下総国府(市川市)や佐倉などの下総台地に位置する生産性の高い土地は、国香や良兼ら伯父によって収奪されており、母と兄弟たちは相馬の館に身を寄せていたといいます。
承平5(935)年、将門に脅威を感じた国香、そして国香の側室の実兄・扶(たすく)らは、地元常陸の真壁郡付近で、将門を襲撃し、亡き者にしようとします。しかし将門は無勢ながら生来の武勇を発揮して逆にこれを打ち破り、扶や伯父・国香を殺害するに至ります。
これ以降、源護一族と伯父・従兄弟たちとの長い闘争に入るのです。
なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
将門が伯父たちとの抗争をはじめたきっかけは、『将門記』によれば「女論」つまり思いを寄せる女性をめぐり、良兼、または国香の息子で将門の従兄弟にあたる貞盛と確執があったとされ、一方『今昔物語』では、将門が上洛している間の良持の死後に一家の所領を伯父たちに簒奪されていたことによる、土地をめぐる確執にあるとしています。
土地をめぐる争いは死活問題ですし、争いになるのは現代人でも容易に理解できますが、好きな女性をめぐって戦うというのはちょっと疑わしい気がします。ところが、これがそうでもないのです。
平安時代の支配階級の婚姻は、基本的に入婿のかたちを取ることが多く、支度金や住まいの準備などは妻側の実家が用意するのが普通でした。つまり男性側から見れば有力者の娘を娶ることはそのまま権益を得ることとも強くつながっていました。そしてその分、妻側の一族の発言力が大きく、婿さんは嫁さんの実家には頭が上がらなかったのです。「女論」は決して軽い問題ではなかったわけです。
高望王の息子たちも、東関東に根付いていた土豪の一族と姻戚関係を結んでいます。
国香・良兼・良茂の三人は、常陸の筑波山麓西域に広大な所領を抱えていた源護(まもる)の娘たちをそれぞれ妻としました。護は嵯峨天皇の皇子源融(とおる)の子孫とも伝わります。
ところが、三男の良持のみ、下総の西南地域・相馬地方(現在の茨城県取手市・守谷市・千葉県柏市・我孫子市一帯)に所領を有する縣犬養春枝の一女を側室としています。縣犬養(あがたいぬかい)氏は古代、犬養部の一族として大和朝に仕えた古族で、奈良時代に下総少目としてこの地に下り、以来この一帯を治めていました。
つまり、国香・良兼・良茂は常陸から下野・上野一帯に古くから勢力を広げ、巨大な古墳を築いた紀氏の末裔となる地方豪族と結んで権勢を高めた源護一族とともに筑波地方に偏って根をはり、良持のみは、讃岐地方から房総に移住した忌部氏、諏訪から入植した出雲系の地方豪族と結んだ縣犬養氏とともに下総北西部に孤立していたことになります。
兄弟同士が疎遠でも、互いに領地を脅かさなければ争いは起きなかったでしょう。しかし、良持の早逝をいいことに、国香、良兼が下総の領地を将門帰国までという名目ながら自分たちのものにしたことから、そのバランスが崩れたのでした。
将門の本拠地論から見えてくる古代関東の複雑な勢力図
将門は、陸奥鎮守府将軍として東北に赴くことも多かった父に託され、母親の実家で成育したために、幼名を相馬小次郎と呼ばれていたことは有名です。
ですから古くから将門の生地は相馬地方の母方祖父の居館があったと伝わる取手付近であろうという説が有力でした。
これに対して異を唱えるのは荒井庸夫氏による豊田郷生誕説で、伯父たちとの私闘や天慶の乱につながっていく経緯の中で、常に将門の本拠地が当該地方であったためとしています。しかしこの説は根拠が薄く感じられます。将門生誕時には下総介の父・良持は市川や流山、佐倉や柏などの下総台地の土地を有していたのですから、わざわざ乱流地帯で田畑のほとんどない豊田猿島で後継ぎを育てた道理もないからです。
普通に考えれば、先述した相馬の取手か、下総国府のある市川(市川には現在も将門居城跡や不知の森など、将門関連の史跡が残ります)か、現在も「将門山」の地名が残り、将門の娘の子孫である千葉氏のもっとも古い居城がある佐倉であると考えるのが蓋然性が高いでしょう。
そしてそのように考えると、後に将門調伏の祈祷をなすために、都から不動明王の像を捧持して下総に下った寛朝大僧正が、なぜ成田の公津ヶ原を呪詛祈祷の場所と定めたのか、その理由も理解できます。成田は、相馬・市川・佐倉一帯の真東にあたるからです。
神話時代の神武天皇東征の折、大和に入ろうとした神武は土地の支配者ナガスネヒコに敗れます。その敗戦は、天照(太陽神)をいただきながら太陽に向かって(つまり西側から)攻めたのがよくなかったと、紀伊半島を迂回して太陽の昇る東側から攻めてリベンジしています。
都の東の果てにある下総から立ち上った将門という脅威を祓うには、東から呪詛を送るしかないと考えたのではないでしょうか。でなければ、将門の近くで呪った方が効力があると考えて都から来たにも関わらず、豊田郷からははるかに距離のある成田でわざわざ祈祷した意味がわかりません。呪詛にはそこがベストポイントだと考えた故なのです。ですから、将門は軍事拠点こそ野馬成育と製鉄、そして伴類を養っていた豊田郷でしたが、自身はその南東部に当たる生まれ育った相馬や佐倉、国府のある市川付近を政治拠点にしようと考え、その付近で活動していたと考えるべきでしょう。
後編では、将門が武士の崇敬を集めたその武勇、そして死に至って後の経緯、そして将門が何者であったのかの本質について叙述していきます。
参考・参照
将門記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
将門記 大岡昇平 中央公論社
平将門論 荒井庸夫 大同館書店