しかし、「僕」は英子の命令で会うことになった男──投資会社社長の肩書を持つ佐藤と対面した瞬間、自分が「破滅する」側に足を踏み入れてしまったと予感する。佐藤がまとう悪のムードは、中村作品を親しむ読者にとって馴染み深いもの。「僕」は、悪に自身の運命を握られる。一方、英子が所属する組織の乱れにより、また異なる存在からも自身の運命を握られる。そこからハリウッド映画のように、絶体絶命の状況において主人公が主体的な判断によって運命を切り開いていく……というストーリーラインは描かない。「僕」はひたすら運命に翻弄され、自由意志を奪われた状態で生存することを余儀なくされる。
人間は自由意志を持ち、それに基づいて選択を行なっている……とは本当か? 現在の選択は、過去からもたらされた因果によって無意志的に決定してしまっているものではないか。もしくは個人を大きく逸脱した、自然あるいは神と呼ばざるを得ないような存在によって決定付けられているのでは。振り返ってみれば中村文則は2002年のデビュー作『銃』の頃から、まずは哲学が、最近では脳科学が議論の対象としてきた「自由意志と運命論」の関係を、小説世界で追究してきたように思う。本作はその二者の関係を、占いやギャンブルをモチーフに採用することで二重三重に色濃く輪郭付ける。そればかりか、中村文学の代名詞と言える手記──一4世紀の錬金術師、16世紀の魔女狩り、ナチス政権下のドイツを生きた個人の物語も全て、二者関係の変奏となっている。ページをめくる者はみな、否が応でも運命なるものの存在を実感することとなる。
最後に残された難問はこうだ。ドストエフスキーの主人公が言うところの「運命にべろを出」す行為を、現代日本を舞台にしたこの物語だからこそこうなったという、説得力ある形でどう実現するか? 内容に触れるのはネタバレにすぎる。だから結果だけを記そう。それが、叶った。
著者は東日本大震災以降、本のあとがきで読者に向けて「共に生きよう」という趣旨の一文を入れるようになった。その一文が、光が、コロナ禍を生きる読み手の胸にこれ以上ないリアリティで突き刺さる。これは、そういう小説だ。