行楽客で賑わう休日、上野動物園前停留所で乗降中の20系統須田町行きの都電。40系統銀座七丁目行きも続行する。手前の併用軌道は上野動物園不忍池分園への通路になっていた。(撮影/諸河久:1963年5月12日)
行楽客で賑わう休日、上野動物園前停留所で乗降中の20系統須田町行きの都電。40系統銀座七丁目行きも続行する。手前の併用軌道は上野動物園不忍池分園への通路になっていた。(撮影/諸河久:1963年5月12日)

日本で初めてのモノレールと交差する上野動物園前

 冒頭のカットは、上野動物園前停留所に停まる20系統須田町行きと40系統銀座七丁目行きの都電。都電の周辺は親子連れの行楽客で賑わいを見せていた。歩道上の電話ボックスや露天商など昭和の憧憬となるような一コマ。

 昔はこの界隈を上野山下と呼んでおり、画面右端の忍ケ丘には文明開化の1872年に創業した西洋料理の草分け「上野精養軒」が所在する。また、忍ケ丘の北側には上野東照宮神社もあり、道坂線の開通時には上野東照宮下と呼称されていた。上野動物園前に改称されたのは戦後の1951年だった。

 背景の陸橋が上野動物園本園と不忍池分園を結ぶ「いそっぷ橋」で、その後方には日本で初めてのモノレールとなった都営「上野懸垂線」の走行桁が写っている。このモノレールは、上野動物園本園と不忍池分園330mを結ぶ懸垂方式のモノレールで、新しい交通システムの実験線として1957年12月に開通した。その後、駅名が本園→東園、分園→西園に変更。走行車両も4度にわたり更新されたが、施設や車両の老朽化が進み、2019年11月から休止されている。
 

上野動物園内を走る上野懸垂線のモノレール車両。写真は二代目のM型で、1967年から1984年まで使用された。上野動物園不忍池分園(撮影/諸河久:1982年1月28日)
上野動物園内を走る上野懸垂線のモノレール車両。写真は二代目のM型で、1967年から1984年まで使用された。上野動物園不忍池分園(撮影/諸河久:1982年1月28日)
上野動物園前の近景。上野動物園西園用地が拡幅され、様変わりしている。背景のコンクリート陸橋が東園と西園を結ぶ「いそっぷ橋」で、背後に休止中のモノレールの走行桁がある。(撮影/諸河久:2021年3月4日)
上野動物園前の近景。上野動物園西園用地が拡幅され、様変わりしている。背景のコンクリート陸橋が東園と西園を結ぶ「いそっぷ橋」で、背後に休止中のモノレールの走行桁がある。(撮影/諸河久:2021年3月4日)

 次のカットは、上野懸垂線の二代目車両として1967年に登場したM型の走行シーン。ドイツ・ブッパータールの懸垂式モノレールに範を取った構造で、座席のみ31名の定員制で運行されていた。左端に分園駅が見える。

 上野動物園前の近景が次のカットだ。いそっぷ橋の背後に休止中のモノレール走行桁が見える。手前の道路が動物園通りで、右側奥が上野動物園東園(旧本園)、左側が上野動物園西園(旧不忍池分園)の施設だ。

専用軌道の終端は児童公園に変貌

 上野動物園前を発車して池之端七軒町に向かう都電は、右に大きくカーブを切ると、一転して直角に近い角度で左に急カーブを切りながら専用軌道を進んだ。
 

薫風が心地よい「池之端の専用軌道」を走る40系統神明町車庫前行きと続行する20系統江戸川橋行きの都電。この地点は都電の踏切になっていた。動物園前~池之端七軒町(撮影/諸河久:1963年5月12日)
薫風が心地よい「池之端の専用軌道」を走る40系統神明町車庫前行きと続行する20系統江戸川橋行きの都電。この地点は都電の踏切になっていた。動物園前~池之端七軒町(撮影/諸河久:1963年5月12日)

 最初のカットが、左に急カーブを切った先の踏切から写した一コマ。上野の杜を背景に池之端七軒町に向かう40系統神明町車庫前行きの都電。その後方には20系統江戸川橋行きも続行していた。都電右側の敷地が東京盆栽組合の本部で、現在も「上野グリーンクラブ」として盆栽展や展示会の催事が行われている。撮影が5月だったので、「さつき」盆栽展示会の張り紙が見える。
 

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