林:先生がいろんな政治家とか有名人の話を聞いて、この人、言葉の使い方がうまいなあと思う人ってどなたですか。
齋藤:先日、NHKで三島由紀夫のインタビューが放送されたんですが、三島由紀夫がしゃべってる言葉をテープ起こしすると、そのまま文章になるような話し方なんです。日本語力が相当に高い人物だなと思いましたね。
林:書くほうでは、昔は、たとえば朝日新聞に知識人が投稿したりすると、読んだ人が「そうなんだ。そうしなきゃいけないんだ」と気づかされて、時代を変えるぐらいの力を持ちましたけど、いまそれがないような気がします。書く力がすごく薄くなっているなと。
齋藤:かつては「朝日新聞の『声』欄にこういうことが載っていた」とか「『論壇』に載っていた」とか、「(朝日)ジャーナルにこんな記事が載っていた」とか話しましたよね。
林:私、このあいだ文藝春秋本誌に「文藝春秋と私」というのを書いたんですけど、昔だったら文藝春秋に何か書いたらそれなりの反応があったのに、ぜんぜんなくてガッカリなんです。
齋藤:書かれたことをめぐって会話がありましたよね、昔は。
林:“アグネス論争”なんてそのいい例で、私が書いたことに上野千鶴子先生がワッと反論して流れを変えたんですよ。そこから長い論争が始まったんですけど、ああいうのがないんですよね。
齋藤:アメリカでは「文明の衝突」(1993年)という論文が出て、たとえばイスラムと西欧の対立のような文明の対立が起こるという論点が提示されると、その論文がベースになって次の議論が始まるみたいな言論空間があるんですが、日本の場合は、「この論文をベースにして議論しよう」という書き言葉の蓄積があまりないような気がします。
林:それは物書きとして寂しいなと思います。
齋藤:書かれたものって力があって、しゃべった言葉より、ほかの人が共有できるわけです。福沢諭吉の『学問のすすめ』も、当時大変なベストセラーになって、たいていの人は知ってるみたいな感じなんですね。ベストセラーの価値が、いまと違って社会を変える力になったんだと思います。