終戦から5年を経た26系統今井橋の終点風景。板張りの窓ガラスや半壊したストライカーをまとった木造都電からは、戦中・戦後の酷使が連想できる(撮影/江本廣一・所蔵/筆者:1950年12月16日)
終戦から5年を経た26系統今井橋の終点風景。板張りの窓ガラスや半壊したストライカーをまとった木造都電からは、戦中・戦後の酷使が連想できる(撮影/江本廣一・所蔵/筆者:1950年12月16日)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した路線編として、最短距離系統を走る都電の話題だ。

【70年が経過してどれほど変化した!? 現在の同じと思われる場所はこちら】

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 筆者が住む東京・新富町付近は、東京メトロの有楽町線や日比谷線、都営地下鉄の浅草線などが張り巡らされている。都内で活動する人ならわかるかもしれないが、駅と駅との距離が短い区間も多い。とりわけ、日比谷線の東銀座駅と銀座駅は、駅の出入り口からホームまでと道のりと列車の待ち時間を考えたら、地上を歩いたほうが早く着くのではと思うほど近い。

 半世紀以上前の都電全盛時代は、現在のバス停ほどではないが、停留所の区間は地下鉄などの駅間と比べれば短いところが多かった。では、始点から終点までの距離が最も短かかった系統はどこか? 読者のみなさんは想像がつくだろうか。
 
■最短距離を走った26系統

 その答えは、1952年5月19日に廃止された26系統(東荒川~今井橋)だ。通称は今井線として知られる一之江線で、走った距離は3189m。始終点間の停留所数も最小の5であった。場所は現在の江戸川区内を走っていた。

 この26系統の廃止時、筆者は5歳にも満たない幼児で、当時のことは知る由もない。今回は先輩諸氏が遺された作品を拝借して、往時の一之江線を探訪しよう。

 冒頭は江本廣一氏の作品(筆者所蔵)で、今井橋の終点で発車を待つ大正生まれの木造単車400型だ。画面右端の終端電柱には今井橋の掲示と、その下に「次ハ瑞江」の停留所板が見える。車両の側窓の下部にはガラス不足を補うための木板が貼られていた。撮影は1950年12月で、日本はまだ連合国の占領下にあった。都電の左端奥に右書きで「宇田川薬局」の看板が見える。この看板が今井橋の現況写真撮影の重要なポイントとなった。

 走行線区の一之江線は、前身の城東電気軌道により全線が単線で敷設され、1925年に江戸川線として開業している。その後、城東電気軌道は東京乗合自動車→東京地下鉄道と経営が変わり、1942年2月に交通調整法で市電路線に編入されている。編入当初は特4系統を付番され、東京都電となった1944年からは40系統に変更された。戦後の系統番号改訂で26系統となったが、電車正面に短冊状の「東荒川」「今井橋」双方向の行先を表示しただけで、系統番号板は掲示されなかった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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