1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は吾妻橋と浅草の街を走る都電の話題だ。
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浅草でこんなに静かな時期が続いたのは、もちろん記憶にない。
観光都市・東京のシンボリックな存在だった浅草は、コロナの影響でひっそりと静まりかえった。ようやく人は戻りつつあるが、それでも近年の観光客から考えればかなり少ない。心なしか、隅田川も静かに流れているような気がする。
江戸期の1774年、その隅田川に “最後の橋”として架橋されたのが「吾妻橋」で、隅田川の別名「大川」にちなんで大川橋と呼ばれていた。明治期の1887年、それまでの木橋に替り、墨田川最初の鉄橋としてスチールプラットトラス構造の「吾妻橋」が新たに架けられた。
吾妻橋に東京市電が走るのは、大正期を待たなければならなかった。しかも前述のトラス橋は幅員が狭かったために、隅田川の上流側に敷設された専用橋を使って運行されていた。
■開通日に大震災に襲われた吾妻橋線
市民待望の浅草雷門と本所を直通する吾妻橋線の吾妻橋西詰(後年浅草に改称)と吾妻橋東詰(後年廃止)が開通したのは、1923年9月1日だった。
ご存知のように、この日の11時58分に関東大震災が発生した。
吾妻橋線はたった半日で不通に。運転が再開されたのは翌1924年2月で、再び吾妻橋上流の専用橋で隅田川を渡るようになった。
冒頭の写真は、1931年に架け替えられた吾妻橋を渡る30系統寺島町二丁目行き(約半年後の1965年9月に東向島三丁目に改称)の都電。日曜日の早朝に撮影したため、車や自転車に邪魔されることなく、吾妻橋を走る都電の独り舞台を記録することができた。
画面右奥が花川戸に所在する東武鉄道の「浅草駅ビル」で、駅ビルのシンボルである時計塔や浅草松屋百貨店の屋上遊戯物などが写っている。いっぽう、画面左側「ハチブドー酒」の看板を掲げたビルが吾妻橋交差点の角に位置する「神谷ビル本館」で、浅草黄金期からデンキブランで名を馳せた「神谷バー」が盛業している。このシックな建物は1921年に竣工しているから、現在の吾妻橋が竣工する10年前になる勘定だ。
■今は林立するビル群
記録によると、新たに吾妻橋の架け替えが始まった1929年12月、一つ下流の駒形橋を使って吾妻橋線の迂回運転が実施されている。迂回運転に使われる駒形橋仮線が敷設され、翌1930年12月の吾妻橋竣工まで運転された。
吾妻橋の竣工時に隅田川を渡った市電は34系統(柳島~万世橋)で、翌年に25系統(柳島~須田町)となった。後年になると2系統(三田~向島)が加わり、1944年に26系統(向島~須田町)に改編された。戦後は24系統(福神橋~須田町)と30系統(寺島町二丁目~須田町)になり、30系統は1969年10月、24系統は1972年11月に廃止された。
暑かった今年の夏、吾妻橋界隈を撮影したのが次のカットだ。
旧景にも写る2013年に登録有形文化財に指定された神谷ビル本館と、道路の重なり具合を参考に定点を求めた。旧景の右側に大きく写る浅草駅ビルも隅田川沿いに林立するビル群に圧倒され、僅か右端に建物の一端が顔を覗かせている。ちょうどやって来た草24系統東大島駅行きの都バスを昔の都電に見立てて、シャッターを切った。