私自身は、棄権という行為以上に、彼女がはっきりと「黒人の女性です」と宣言したことに強い衝撃を受けた。日本では、そのことは議論の中心からどこか外されている印象があった。

 母親が日本人、だから「大坂なおみは日本人」。実際、「テニスにおける所属先として大坂は日本を選んだ」という報道もなされた。

 しかし、彼女自身は「黒人の女性だ」というアイデンティティーと片時も離れることなく生きているのだ。その毅然とした宣言に、頭の垂れる思いがした。

●「アスリートは黙って競技に専念するべき」という支配からの脱却

 今も日本では、スポーツ選手はつべこべ言わず、自分の役割、つまり競技に専念すべきだという認識が根強い。しかしそれは結局、誰かの都合に支配され、利用される結果になっていることを世界中のアスリートが気付き始めた。

 商業主義がスポーツ界を席巻し、支配者だけでなくアスリートもその恩恵を享受するようになって、いっそう主催者側、いわば資本家側とアスリートの協調関係が深くなった。つまり、アスリートも体制側の人間になり、一人の人間としての行動より、ビジネス的な契約や義務に背きにくくなった。

 今回も日本のファンの反応の中に、「多額の賞金をもらっているのだから棄権はおかしい」といった指摘が見られた。確かに大坂なおみ選手の行動はプロとしての契約に背くものだが、高額契約の縛りがある中での行動は、それだけの覚悟を伴うものだったろう。経済的な支配や契約も超越し、毅然とした態度を取るべき時があるという覚悟を、彼女は行動で表した。

 アスリートが試合をしないことで意思を表す、主催者側もこれに応じるといった流れは、以前にはあまりなかった。かつてスポーツの場で人種差別に抗議したアスリートはいたが、多くの場合、処罰を受けたり、追放されたりする例がほとんどだった。

 それが今回は対照的だ。これは人種差別撤廃への強い社会的認識が前提にあるだろう。そしてもう一つ、「世界的なコロナ禍の影響でスポーツができなくなった」という現実を経験したことも背景にあるかもしれない。従来、スポーツはよほどの状況でなければ強行してきた。「スポーツは何にも優先して行うのが社会的正義だ」という了解があったように思う。スポーツを実施することが平和や健全な社会の証しである。だから、実施するのだと。そのことは、実際には健全でないのに、スポーツをやることで社会が健全であるかのように規定される逆証にも使われていた。

 しかし、コロナ禍で「スポーツができない」状況に直面した。社会が健全でなければスポーツはできないのだという現実を経験して、私たちはスポーツをやめる勇気を得たといってもいいのではないか。そして、偽りの健全を証明するためにスポーツを強行することを、たとえ主役級のアスリートであっても応じる必要がない、むしろ応じてはいけない責任感を、大坂なおみ選手をはじめ各アスリートは示したように感じる。

暮らしとモノ班 for promotion
台風シーズン目前、水害・地震など天災に備えよう!仮設・簡易トイレのおすすめ14選
次のページ
日本のアスリートやスポーツ選手が気付くべきこと