『翻訳の授業 東京大学最終講義』
朝日新書より発売中
「最終講義やりますか?」
去年の暮れのことです。32年間勤めた東京大学を辞める決意をしたとき、同僚の方々がそう尋ねてくれました。
やりますかと尋ねられて少し迷いました。そのような会を催すには、同僚や教え子たちにたいへんな面倒を強いることになるからです。しかし、最終講義は一生に何度もやれるものではないという身勝手な理屈に負けて、思い切って親切な方々のお言葉に甘えることにしました。
さて、やるということは決まりました。しかし何をやるかが問題です。最終講義にはご挨拶という意味合いもありますが、挨拶するならこちらから出向くべきところ、わざわざ足をはこんで下さった皆さまに、雑談まじりのご挨拶だけというわけにはいきません。
人徳があるとか、慕われているとか、話がとびきり面白いとかいうならそれでもいいでしょう。たとえば昭和を代表する噺家(はなしか)の古今亭志ん生は、酔っぱらって高座に上がるものだから、途中で違った噺になってしまったり、あげくのはてに居眠りを始めたりというようなていたらくだったけれど、無粋な客が文句を言おうものなら、「寝かしておいてやれよ」の常連客の鶴の一声だったそうです。みんな志ん生そのものを見にきていたのです。
自分を大名人と並べるような野暮天ではありませんが、いうまでもなく私にはそんな芸はありません。自慢ではないが、話はへた、人徳など薬にしたくてもないし、顔もまずいし声も最悪。よりによって誰が見にきてくれるだろうと思ったので、せめて話の中身くらいは聴いて下さる方々のお役に立てるようなものにしようと思いました。
こんないきさつで、講義のことを考えはじめましたが、せっぱつまって「翻訳論の使命」などというだいそれた題名を付けてしまったのが運の尽きで、結果として、これまで大学で教えてきた翻訳についての考えを、総決算するような内容の話になってしまいました。
このたびの著書『翻訳の授業』の第八章は、ほぼこの最終講義の内容そのものです。講義はこんな気負った内容でしたが、二百枚ほどのパワーポイントのパネルを使いながらの口演だったので、翻訳についての話ははじめてという皆さんにも喜んでいただけたようです。本のバージョンも、きっと読者の皆さまに楽しんでいただけるものと確信しています。嘘だと思うならまあ読んでみてください。すいすいと読めて、すらすらと理解できること請け合いです。
中身のことを少しお話ししておきましょう。