
1990年以前、日本人の髪色はそのほとんどが黒だった。50年頃から多くの人に親しまれるようになったパーマに対し、ヘアカラーが広まったのはそれから40年も後のこと。長らくの間、ただ白髪を染めるための行為としか認識されていなかったのだ。
しかし90年代に入り、日本のヘアカラーはすさまじい勢いで進化を遂げ、街では多様なヘアカラーの人が行き交うようになった。そこにはアジア人独特の髪質をコントロールし、日本人が似合うヘアカラーを追求し続けた「ヘアカラーリスト」(以下、カラーリスト)たちの存在があった。ヘアカラーはどのようにして進化し、浸透してきたのだろうか。日本のヘアカラーの第一人者として発展に力を注いできた美容室「 kakimoto arms(カキモトアームズ)青山店」のカラーマネージャー岩上晴美さんに話を聞いた。
■イギリスから伝わった技術「ウィービング」
岩上さんがカラーリストとなったのは94年。その頃もまだ白髪染めか、脱色しただけの金髪ぐらいしかバリエーションがなく、夜の街で働く人やバンドマンなどの一部の人に需要がある程度であった。kakimoto arms に入社して2年ほどがたった頃、 岩上さんは会長(当時は社長)の柿本榮三氏からいきなり、「カラーリストにならないか」と打診された。
「はじめはお断りしたんです。もともとはスタイリストになりたくて入社した訳ですし、カラーリストが何をするのかも想像できなかった。当時は、カラー=アシスタントの仕事だという認識でしたから」(岩上さん)
しかし、本場イギリスから招いたカラーリストに出会ったことで岩上さんの考えは一変した。カラーリストは、柿本会長の要望でイギリスのサロン「ダニエルギャルビン」から招かれた。ダニエル・ギャルビンは、60年代から活躍し、ヘアカラー専門店を欧州で初めてオープンした人物だ。日本でも一世を風靡したモデルのツイッギーや、映画「時計じかけのオレンジ」の際にヘアカラーを担当するなど、ヘアカラーのパイオニアとして一目置かれ、今なおハリウッドスターや王族関係者など世界中に顧客をもつ。そんな彼の独自のテクニックを学ぶ実習を、岩上さんをはじめとする3名のスタッフが受けることになった。
そこで習得した技術は「ウィービング」という技術だ。筋状に毛束を染めるためのテクニックで、明るく染めた部分は、「ハイライト」とよばれる。均等な厚みで髪を引き出し、幅3ミリ、深さ3ミリの三角形の形で髪をすくう。それを連続して、リズミカルにすくっていく。すくった髪にだけ薬剤を塗布し、それ以外の部分に薬剤がつかないように毛束を銀紙で包む。そうすることで銀紙に包んだ部分だけ髪が染まるのだ。
