「東京オリンピック」を迎える1964年正月元旦の日比谷公園停留所風景。200mmレンズのフレームの中に、斜光を浴びた5系統の都電が浮かび上がった。(撮影/諸河久:1964年1月1日)
「東京オリンピック」を迎える1964年正月元旦の日比谷公園停留所風景。200mmレンズのフレームの中に、斜光を浴びた5系統の都電が浮かび上がった。(撮影/諸河久:1964年1月1日)

 いよいよ2020年の五輪イヤーに突入した。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、前回の東京五輪が開かれた56年前の東京・日比谷の元日の風景を紹介する。八つの系統が交差点を行き交った「日比谷公園」を走る都電だ。

【現在の日比谷はどれだけ変わった!? 別カットなど貴重な写真はこちら(計5枚)】

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 薄日が差し込んだ1964年の元日。五輪イヤーをむかえた東京の正月の風景だ。

 現在と違って、当時の正月は百貨店や飲食店など、営業しているところがほとんどなく、保存がきく「おせち」を作り置きして食べたもの。正月三が日を過ぎるまで、普段は人いきれの都心部もひっそりとしていたものだ。と思えば、「働き方改革」で今年の元日や正月は営業しなかった店舗が増えたという。働きすぎのこの国にとって、良いことではないか。50年以上前の静けさとまではいかないが、この三が日、静かにたたずむ東京はいかがだっただろうか。

■望遠レンズ独特のパース

 冒頭の写真は1964年の元旦に撮影した日比谷公園停留所に停まる5系統目黒駅前行きの都電。背景の「日比谷三井ビルディング」の正面玄関には特大の日章旗が掲げられ、都電の日章旗と共に正月ムードを演出してくれた。この写真は日比谷交差点の北側からアサヒペンタックスSVにプリセット式のタクマー200mmF3.5の望遠レンズを装填して撮影している。当時200mm望遠レンズの存在は希少で、標準レンズでは得られない独特のパースで都電を描写できた。

 画面左側は1929年に竣工した名建築「三信ビルディング」で、日比谷三井ビルとの間にある「日比谷映画劇場」に通じる路上には日比谷折返し線が敷設されていた。この折返し線は、日比谷公園始発の25系統や途中で折返す35系統が使用していた。

 ちなみに、この日比谷三井ビルは1960年の竣工で、日比谷地区再開発のため2011年に解体されており、日比谷折返し線も日比谷公園停留所の移設によって1961年に廃止されている。

日比谷交差点の近景。背景の日比谷三井ビルは「東京ミッドタウン日比谷」になり、左手前の三信ビルは「日比谷マリンビル」になった。(撮影/諸河久:2019年12月23日)
日比谷交差点の近景。背景の日比谷三井ビルは「東京ミッドタウン日比谷」になり、左手前の三信ビルは「日比谷マリンビル」になった。(撮影/諸河久:2019年12月23日)

 日比谷通りから都電が姿を消したのは1968年3月だった。半世紀後の日比谷交差点にカメラを向けると、背景になっていた日比谷三井ビルや三信ビルは姿を消し、2018年に竣工した日比谷三井タワーを擁する「東京ミッドタウン日比谷」が新しいランドマークとして威容を誇っている。

■東京を代表するジャンクション

 日比谷交差点は日比谷通りを走る2・5・25・35・37系と交差する晴海通りを走る8・9・11系統の八系統が走るジャンクションだった。十の系統が集まる須田町交差点には系統数で及ばないが、近隣の帝国劇場、日生劇場、宝塚劇場、日比谷映画街などの観劇客で賑わい、繁華さでは勝るとも劣らない交差点だった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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唱歌が伝える日比谷交差点の隆盛