日比谷通りに敷設された軌道は大手町方から日比谷公園までが神田橋線で、日比谷公園から先が三田線に名称が変わる。いっぽう、晴海通りに敷設された軌道は築地方から日比谷公園までが築地線で、日比谷公園から先は半蔵門線に名称が変わっていた。いずれも、東京市街鉄道(街鉄)時代の1903年から1904年にかけて開通している。

 1906年に発刊された「東京地理教育電車唱歌」の冒頭には「玉の宮居(みやい)は丸の内 近き日比谷に集まれる 電車の道は十文字 まづ上野へと遊ばんか」と唱われており、開通当初から日比谷交差点が隆盛だったことが推察される。

故障した都電を牽引して新宿車庫に向かう救援電車。めったにお目にかかれない光景だ。路上にはダイハツオート三輪トラックやセドリックタクシーなど、昭和時代の自動車が走る。日比谷公園~桜田門(撮影/諸河久:1965年2月21日)
故障した都電を牽引して新宿車庫に向かう救援電車。めったにお目にかかれない光景だ。路上にはダイハツオート三輪トラックやセドリックタクシーなど、昭和時代の自動車が走る。日比谷公園~桜田門(撮影/諸河久:1965年2月21日)

■晴海通りを走る11系統に救援電車が出動

 別カットは故障して不可動となった11系統の都電を、救援電車が牽引して新宿車庫に帰庫する一コマだ。この日はたまたま晴海通りの日比谷公園停留所付近で撮影していたので、珍しいシーンを撮ることができた。故障車両救援の影響で日比谷停留所には9系統渋谷駅前行きや11系統新宿駅前行きの都電が数珠繋ぎになっていた。

 画面右側には数寄屋橋から祝田橋を結ぶ日比谷地下道が写っており、撮影時はまだ工事途中で未開通だった。救援電車に並走しているオート三輪トラックは、丸ハンドル仕様の1958年式/ダイハツ工業CM8型だ。この時代、三輪トラックは都内随所で活躍していた。

 背景右側の建物が戦後いち早く建設された「日活国際会館」で、1階はノースウエスト航空の営業所になっていた。その隣が「大正生命館」と丸の内警察署、左端のビルが占領時にGHQが置かれた「第一生命館」だ。画面中央には「日本放送」の電波塔が見える。

半世紀経った晴海通りの近景。背景の画面中央に位置する警視庁丸の内警察署が建て替え中で、左端の「第一生命館」だけが往時の姿だった。手前が「日比谷トンネル」で、計画当初は三原橋から桜田門に抜ける自動車専用道路となる予定だった。(撮影/諸河久:2019年12月23日)
半世紀経った晴海通りの近景。背景の画面中央に位置する警視庁丸の内警察署が建て替え中で、左端の「第一生命館」だけが往時の姿だった。手前が「日比谷トンネル」で、計画当初は三原橋から桜田門に抜ける自動車専用道路となる予定だった。(撮影/諸河久:2019年12月23日)

 半世紀後の日比谷ビル群はその姿を変えていた。日活国際会館は高級ホテル「ザ・ペニンシェラ東京」に建て替えられ、大正生命館も日比谷サンケイビルに変身していた。外観が往時のまま残されたのが「第一生命館」で、重厚なたたずまいが美しかった。

 画面右側が停留所名にもなっている「日比谷公園」で、庭園・噴水・花壇・音楽堂などを備えた日本で最初の近代的庭園として1893年に造営されている。近隣の鹿鳴館と共に、幕末に締結された不平等条約改正を目指す近代化のシンボルとされた時代背景がある。

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路面電車ではもたない輸送力