■戦火を免れた街並みを走る都電
大塚仲町界隈に路面電車が走ったのは1911年11月で、東京市営になってからの敷設だった。いっぽう、大塚線を東西に横切る護国寺線が全通したのは大正末期の1924年7月だった。戦前は大塚線を16系統(大塚駅前~新橋駅北口)、17系統(大塚駅前~厩橋一丁目)が走り、護国寺線を20系統(矢来下~上野広小路)が走っていた。
戦後になると大塚線は16系統(大塚駅前~錦糸町駅前)、17系統(池袋駅前~数寄屋橋)に変わり、護国寺線も20系統(江戸川橋~須田町)になったが、系統番号は不変だった。
■由緒ある町名は消え
別カットは前掲の旧画面の右側で、護国寺線の大塚仲町停留所を発車した20系統須田町行きの都電。不忍通りの下り側には安全地帯が設置されていたが、道幅が狭隘(きょうあい)な上り側には設置されていなかった。戦災を免れた街並みと戦前型の都電が織り成す昭和時代の一コマになった。都電の右背景には、中学時代に通った「つぼみ堂模型店」が写っている。その後ろには、東京消防庁小石川消防署大塚出張所の古風な望楼が顔を覗かせていた。
都電の脇には、レジェンドとなってしまったダイハツの軽三輪トラック「ミゼット」やトヨタFC80型ダンプカーが並走しており、氷川下町に続く白鷺坂の緩い下り勾配を下って行った。
不忍通りの近景も大変貌しており、往時の建物は皆無だった。大塚三丁目交差点角には川越街道の向かい側から移転した三井住友銀行大塚支店が建っていた。昔の都電20系統に替って都バスの大塚三丁目停留所が設置されており、上58系統(早稲田~上野松坂屋)の都バスを画面に入れたシーンを撮影した。
久方ぶりに訪れた大塚三丁目だったが、1966年頃、文京区で施行された町名変更の嵐が吹き荒れ、画一的な町名に変貌していた。この界隈だけでも、大塚仲町→大塚三丁目、氷川下町→千石三丁目、大塚窪町→大塚三丁目・小石川五丁目、大塚辻町→大塚四・五丁目、大塚坂下町→大塚五・六丁目、東青柳町→音羽二丁目・大塚二丁目というように改称され、江戸期からの由緒ある町名は消え失せてしまった。
町名変更に異議を唱えて、往時の町名を残した新宿区の手腕に拍手を送りたい。
■撮影:1964年12月21日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。