富士見坂を上り、大塚仲町交差点で大塚線に分岐合流する17系統の都電。急勾配の富士見坂には、常時滑り止めの砂袋が用意されていた。護国寺前~大塚仲町(撮影/諸河久:1964年12月21日)
富士見坂を上り、大塚仲町交差点で大塚線に分岐合流する17系統の都電。急勾配の富士見坂には、常時滑り止めの砂袋が用意されていた。護国寺前~大塚仲町(撮影/諸河久:1964年12月21日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は川越街道と不忍通りが交わる大塚仲町(現大塚三丁目)を走る都電だ。

【55年が経過した現在の坂道はどんな風景になった!? いまの写真や貴重な別カットはこちら】

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 坂が多い街。大塚の街並みにはそんな印象がある。

 JR山手線で巨大ターミナルの池袋駅と巣鴨駅に挟まれた大塚駅は、乗客数がそれほど多い駅ではない。つまり、にぎわう駅ではないが、落ち着いた雰囲気で住み心地の良さそうな美しい街並みだ。今回取り上げるのは、そのJR大塚駅から南に歩くこと15分ほどの「大塚三丁目」交差点付近である。

 写真は大塚仲町停留所から大塚駅方向を撮ったもの。右の氷川下町方向に下る坂が白鷺坂(しらさぎざか)、左の護国寺方向に下る坂が富士見坂だ。

 護国寺前から富士見坂を上ってきた17系統数寄屋橋行きの都電が大塚線に分岐合流するシーンを狙った一コマだ。富士見坂はかなりの上り勾配で、都電専用の右折信号が現示するまでは、上り坂の途中で停車してから坂道発進することになる。マニュアルミッションの自動車を運転された方なら、坂道発進のテクニックがお判りになるだろうが、都電でも起動ノッチを入れて車体が微動したタイミングで、エアブレーキを緩めることになる。ベテランの運転士は難なくこの所作をこなしていたが、雨や雪の日は車輪が滑るため、上り坂の発進には神経を注いだことが推察される。

■東京のあちこちから望めた富士山

「富士見坂」は、この界隈から富士山が遠望できたことから名付けられた。昔は高層建築もなかったから、東京のいたるところから富士山を眺められたので、富士見坂の名称が都内に十数か所あるのは頷けることだ。富士見坂を下ったところに所在する護国寺は、1681年に五代将軍徳川綱吉によって建立された古刹(こさつ)である。

背景の住友銀行大塚支店は川越街道の東側に移転し、跡地には13階建ての高層マンションが建てられた。大塚三丁目交差点(撮影/諸河久:2019年11月24日)
背景の住友銀行大塚支店は川越街道の東側に移転し、跡地には13階建ての高層マンションが建てられた。大塚三丁目交差点(撮影/諸河久:2019年11月24日)

 撮影から55年を経た大塚三丁目交差点の近影だ。都電の背景の住友銀行大塚支店は画面右側角に移転し、跡地には13階建ての護国寺ロイヤルハイツが建っている。地下一階にあたる階層が坂の途中の歩道に接しており、富士見坂の勾配の具合がお判りになるだろう。旧景の住友銀行の右奥には瓦葺の老舗「旭寿司」が写っているが、現在はプロフ文京大塚のビルになっていた。

 大塚仲町は川越街道(国道254号線)と不忍通りの交差点で、川越街道に敷設された大塚線と不忍通りに敷設された護国寺線の都電が行き交うジャンクションだった。春日町(現文京区役所前)から富坂を上ってくる富坂線は、伝通院前から大塚線になって、小日向(こびなた)台地の尾根伝いに北上し、大塚仲町に至っていた。馬の背のような台地の平坦部はわずかな幅であるから、桜の名所として知られる播磨坂を始めとする多くの坂道が東西の方角に交差していた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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