2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。東京から各地を結ぶ街道は、中央区日本橋を起点として放射状に広がっていた。今回は日光街道の終点「千住四丁目」と中山道の終点「志村橋」、それに清洲橋通りの終点「葛西橋」の都電風情を点描してみよう。
【現在の同じ場所はどれだけ変わった!? 本文中の葛西橋、志村橋などの貴重な写真はこちら(全6枚)】
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■昔の街並みが消え去った北千住終点
北千住線は千住大橋~千住四丁目1900mを結ぶ路線で、日光街道(国道4号線)に敷設され、1928年7月から運行されていた。当初の29系統(千住四丁目~土州橋)から22系統になり、戦後は21系統として千住四丁目~水天宮前を結んでいた。
江戸期の千住は品川、内藤新宿、板橋と同じ江戸四宿の一つで掃部宿(かもんじゅく)とも呼ばれ、独特の文化圏を形成していた。
都電が走っていた昭和の時代は高速道路網が未整備で、都電終点の北側に位置する千住新橋は自動車交通の難所だった。現在は首都高速や東北自動車道が整備され、千住新橋の架け替えも完了して道幅が広がるなど、当時の大渋滞は大幅に緩和されている。
旧景は北千住線が廃止される前日の撮影で、商店街のアーケードには「都電よごくろうさまでした」の横看板が掲出されていた。この21系統は1968年2月25日から三ノ輪橋~水天宮前に運転短縮され、1969年10月25日に全線が廃止されている。
千住四丁目終点跡は大変貌していた。1973年には千住大川町横断歩道橋が竣工。1980年代に入ると道路拡幅工事が始まり、画面右側の街並みがセットバックされた。画面左側には、当時の家並が少しは残っていると思っていたが、高層マンション群が建ち並び、都電惜別の看板が掲げられた往年の商店街は消滅していた。
■三軒家と呼ばれていた新河岸川畔の志村橋終点。