改革派は、尊王攘夷派の公家に接近し、長州藩は京都の政局に影響を及ぼしていった。とはいえ、朝廷には公武合体派の公家もおり、長州藩が朝廷を掌握できたわけでもない。文久三年(1863)の八月十八日の政変で、長州藩は会津藩を中心とする公武合体派によって追放された。そして、翌元治元年(1864)、復権を図ろうとして上洛したが、禁門の変に敗れ、「朝敵」とされてしまう。
こののち、幕府による追討を受けることになった長州藩では、改革派が政権を奪い、討幕へと傾いていく。藩として政治・外交力を発揮できたのは、改革派が保守派を一掃した後のことである。長州藩は、薩摩藩との薩長同盟により、討幕の中心勢力になった。とはいえ、薩長同盟は密約同盟であり、藩として政治・外交力を誇示するには至っていない。そのため、政治・外交力は低く、16点とする。
長州藩の石高は、名目的には36万石余であったが、江戸時代を通じて瀬戸内海沿岸の干拓を行っており、水田面積を増やしていた。そのため、幕末における実質的な石高は、支藩を含めれば100万石近くになる。しかし長州藩には、他の藩と同様に借金もあり、幕末には200万両におよんでいたらしい。そのため、村田清風などによる藩政改革が行われ、倹約に努め、藩財政は改善された。こうした点から、経済力は18点をつけた。
本来ならば、藩政改革によって生じた余剰金は、借金の返済にあてるところであるが、長州藩では、これを軍事費に注ぎ込んだ。結果、それほど経済力が高かったわけではない長州藩が、近代的な兵制を導入し、軍備を整えることができたのである。尊王攘夷を実行した長州藩は、イギリスを中心とするフランス・オランダ・アメリカの列強4カ国とも戦端を開く。
この馬関(ばかん)戦争には敗北するものの、欧米列強との実戦経験に
より、軍事力は高められた。こうしたことをふまえ、軍事力は19点とした。長州藩の人材が満点の20点なのは、多様な逸材がいたためである。尊王攘夷の精神的な支柱となった吉田松陰に師事した久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を左右するようになっていった。
幕末の政治・外交では中心になりえなかった長州藩であったが、明治維新後には、伊藤博文・山縣有朋らが新政府を牽引している。二度にわたって幕府との戦争を戦った長州藩は、幕府を敵とすることで戦意を高めた。そのため、モチベーションも満点の20点とする。
(文/小和田泰経)
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.6』から抜粋