だけど人間と居住空間を共有していると、人間はいつも猫の被害者になってしまっている。今、わが家にいる「おでん」という猫は人間でいえばならず者である。所かまわず、糞尿をする。妻はそんな無法者の猫に振り廻されて一日中、家の掃除ばかりしている。わが家の「おでん」はわれわれのストレスの原凶である。でもそんなストレスの原因になっている「おでん」を捨てようとは思わない。むしろ不憫に思って可愛がっている。同じ屋根の下に住む同居者の無法行為に人間であるわれわれは振り廻されながら修行させられている。
まあ、ここまで猫のマネをすればいくら画家だって社会から評価されないだろう。でもその無手勝流のならず者的な性質の少なくとも何分の一かは画家の精神に必要な要素である。だから見て見ないふりをして許しているのである。
世間は今、猫ブームである。それとアートブームはどこか一致しないだろうか。アートにはどこか反社会的(暴力団ではない)な行為が不可欠である。世間の常識や普遍性からズレていなければ面白くない。猫が可愛がられているのも、もしかしたら人間とはズレている所に何らかの魅力を感じているのではないだろうか。ズレるということは大事である。猫に限らず、特にアートの世界ではズレていなければ魅力がない。社会とピタッと一致するものはやがて淘汰されてしまう。一歩先を行くためにはズレていることが必要である。
人間でもマイ・ペースな人間は世間からみればズレている。マイ・ペースとは自由を主張する生き方である。猫のマイ・ペースはまさに自由の体現である。だから僕は猫に惹かれるのである。そういう意味で猫ブームは社会的メッセージである。自由を希求する時代のメッセージが猫ブームである。
「猫」「ねこ」「ネコ」と書くのは猫をひとつの文字で語り切れない多面性からきているのかな? とも思うが、ひとつの物体をまるでキュビズムの絵画みたいに色んな角度から語るのにも何か意味のない意味があるのかなと思うが、よう知らんけど。