芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、について。

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「猫」のことを「ねこ」や「ネコ」と書いたりするのは何でや、知らんけど。僕は「猫」と書く。その理由は特にないけれど絵を描くという「描く」の字が「猫」という字とよく似ているので「猫」の方が親しめるのである。まあ、どうでもいいことだが、画家と猫は僕の中では親密な関係というか、ある親和性を感じるのである。

 僕は子供の頃から猫が好きで、今も猫を飼っている。多い時は10匹もいたことがある。では、なぜ猫なのか? と特に深く考えてみたことはないけれど、どうも猫は僕の自画像のように思えたり、または画家の理想の姿のようにも思えるのである。

 どーいうことかというと、猫は犬のようにサービス精神や飼い主におべんちゃらしません。ゴーイング・マイ・ウェイの精神で、嫌なこと、好きなことが物凄くハッキリしている。つまり妥協はいっさい許さない。このような猫の性格は画家の理想の姿でもある。つまり社会性が先天的に欠如している。そんな動物が可愛がられるのは、もし自分もこのように生きられればどんなに自由か知れないという究極の人間の生き方のサンプルなのかも知れない。

 画家でも真面目な画家は仮に絵が上手かったりしても、真面目故に面白い絵が描けない。面白い絵というのはどこか不真面目でチャランポランないい加減精神がないと人を惹きつけない。つまり遊びの精神が欠如している、真面目だけが取りえな人は画家に向かないというわけだ。遊びというのは無目的でなければならない。何々のためにという目的も大義名分もそんな気持ちはいっさい必要ない。

 猫とそっくりである。猫は怠け者であるが遊びが大好きである。与えられた環境の中でいつも遊ぶ。例えばこちらの仕事の邪魔をするので、ゴミ箱につまんで捨てる。そしたら、なんとゴミを相手にゴミ箱の中でひとり暴れまくっている。与えられた環境を肯定して、その環境を利用して遊びまくる。ここには絵の極意がある。つまり絵は無条件に遊ぶことが必要である。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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