死んだ夫が別人だった──単なる偽名ではなく、戸籍を持った「実在の他人」になりすましていたと知った妻は、旧知の弁護士・城戸に相談。城戸は、多忙な業務の合間をぬうようにこの謎と向きあい、他人に化して死んでいった男の正体を明らかにしていく。
平野啓一郎『ある男』は、序章をふまえて動きだす長篇小説だ。作者があるバーで知りあった城戸から聞いた話に興味を持ち、自ら取材して虚構化したと、わざわざ記している。当然、ここにも作者の企図が仕掛けられているはずなのだが、謎が解けていく展開の巧みさに引きこまれ、気づけば、城戸とともに自身のアイデンティティーについて自問していた。
他人として生きた男の過去。その実状を知るたび、そこにあった家族の問題、世間からの差別、現行の法制度の欠陥などが浮上し、城戸に跳ね返ってくる。日本で生まれ育ち、すでに帰化しているとはいえ在日韓国人三世の城戸は、よりナイーブに「存在の不安」について思索し、自身の破綻寸前の夫婦関係にも苦悩する。自分らしく存在するために生きてきた過去をふり返り、「これでよかったか?」と彼が問うあたりは、中高年の読者には深く響くだろう。
この作品は、城戸を通じて<愛にとって、過去とは何だろうか?>と考えさせる。読者は、だから自分の過去と愛する相手との関係性をふり返り、今に至る人生の不思議に思いを巡らせることになる。それは、謎の男と城戸の関係の相似形でもあり、作者が序章で匂わせた創作の目的でもある。城戸であれ私であれ、誰であれ、存在の不安は、おそらく死ぬまでつきまとう。
※週刊朝日 2018年11月23日号