このOBが語る「考え方」とは、速水優総裁時代の2000年10月、リフレ派の主張に反論する狙いで、日銀がバブル崩壊後のデフレの状況などをまとめた「『物価の安定』についての考え方」のことを指している。

 この中で日銀は、1990年代の日本の物価上昇率の「落ち着き」は、バブル崩壊後の需要の弱さを反映した面が大きかったとしながら、技術革新や規制緩和、グローバル化による競争激化に加え、流通革命など供給サイドの要因が物価低下圧力として作用していると分析。金融政策だけで物価を上げるのは難しいと主張した。

 また、物価と金融政策の関係も「複雑」で、供給サイドの要因で物価が下落するときは、投資が増え経済活動が活発化する場合もあるとしている。

 当時、リフレ派が“世界標準”の政策として求めたインフレ目標に対しても、経済発展と整合する「物価の安定」の定義を、特定の数値で示すのは困難だと反論。各国の金融政策は、経済状況や歴史、制度の違いなどを反映してさまざまだから、世界標準にならう必要はないと強調した。

 その後の日本経済の動きをみると、緩やかなデフレのもとで長い景気拡大が続き、日銀の考え方が妥当だったといえる。

「当時、日銀の言うことは、世界の経済学の常識とは違うと“異端視”され、白川総裁も任期を残して辞めることになった。ガリレオが地動説を唱えて、天動説のローマ教皇に迫害されたのと同じだ。ようやく迫害から解放され、まともな議論に戻れるようになったということだ」と、日銀の元幹部は語る。

●変わる「トロイカ体制」の力関係 主導権は生え抜き副総裁に

 とはいえ、黒田総裁が就任した当初はリフレ派が隆盛を極め、こうした議論を行うこと自体、難しい状況だった。それが最近の黒田総裁は、かつてのように積極的な緩和拡大に触れることが少なくなり、副作用やIT化などの影響に言及することが目立つようになり、現実路線を志向しているように映る。

 こうした変化の背景には、2期目に入った黒田日銀の「トロイカ体制」の“重心”が変わってきたことが挙げられる。

次のページ
「副作用」を前面に出し布石をうつ