2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「市ヶ谷見附」停留所付近。江戸城の外濠を巡る景勝地のひとつだ。
【50年後の市ヶ谷駅周辺はどれほど変わった? 現在の写真はこちら】
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東京には赤坂見附など「見附」と付く地名が残っているが、実は市ヶ谷もその一つ。「市谷見附」という地名が今も残っている。そもそも「見附」とは交通の要所に設置された見張り所に由来し、枡形の城門(御門と称した)を警護する監視所を意味した。江戸城には三十六見附があったと伝えられている。城の西側に面した外濠に設けられた牛込、市谷、四谷、喰違、赤坂の五見附は、今も地名に「見附」を残し、痕跡となった石垣とともに江戸の往時を偲ぶことができる。
当時の写真は国鉄(現JR)市ヶ谷駅近隣にあったユースホステルの集会室からの一齣だ。眼下を走る都電通りの眺めの良さに魅かれて窓辺から撮影した。手前の10系統渋谷駅前行きと、外濠通りを横切る3系統品川駅前行きの都電が交差した瞬間を狙ってシャッターを切った。
写真の右手は牛込見附、左手は四谷見附で、牛込見附まで続く外濠には水が満々とたたえられており、左手の濠には貸しボート屋が盛業中だった。外濠の土手に植えられた桜花が満開の頃、市ヶ谷見附界隈を走る都電は車窓からの花見を楽しめた。
また、市ヶ谷といえば釣り堀を思い浮かべる人も多いだろう。写真のちょうど右側になるが、せわしい都会のなかでまるで時間が止まっているかのような「市ヶ谷フィッシュセンター」は、創業60年以上。つまり、この当時から営業していたことになる。「外堀」で楽しむ「釣り堀」も一興だ。
10系統渋谷駅前行きの都電が国鉄市ヶ谷駅前から土塁(現「市ヶ谷橋」)を下り、市ヶ谷見附の停留所に接近する。外濠を割った狭隘(きょうあい)な土塁の上に停留所があり、乗客は安全地帯のない停留所で乗降していた。
この市ヶ谷線は12系統(新宿駅前~両国駅前)の一人舞台だったが、1963年10月からオリンピック道路工事で迂回運転を余儀なくされた10系統(渋谷駅前~須田町)が加わった。10系統は渋谷駅前を発して、青山一丁目~四谷三丁目~四谷見附~市ヶ谷見附~九段下~須田町に至る9683mの路線だ。迂回前は青山一丁目~赤坂見附~三宅坂~半蔵門~九段上の経由だった。明治年間に東京市街鉄道が開通させた名門ルートで、戦前から系統番号も運転ルートも不変だった。
背景の高台は市谷台で、右手の細い路を入り石段を登ると、市谷っ子の氏神様でもある「市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)」の杜が見えてくる。広重の「名所江戸百景」にも描かれた古刹で、太田道潅が江戸城築城に際して西方の守護神として鎌倉・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)から分祀したのが起源である。鎌倉の「鶴岡」に対して、こちらは更に縁起の良い「亀岡」と称した。江戸期には「市谷八幡宮」として大いに栄え、池波正太郎の時代小説「剣客商売」にも登場する。第二次大戦の戦火で罹災したが、1962年に現在の社殿が再建されている。
■撮影:1964年5月17日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。9月には軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催予定