社長直轄プロジェクトに指名されるのは名誉だ。嬉々として受け入れるのが普通だ。それを蹴るとは、「なんてバカなやつだ」ということになる。

 社長室から戻ると、「どうだった」と、人事部長が訊ねた。「バカだといわれました」と答えると、「決まりだな」と人事部長はいった。

 河野は翌90年、東欧に渡った。27歳だった。現地の混乱は、想像を超えていた。50年以上ソ連の統治下にあったのだから、まともな会社はない。オフィスもない、社員もいない。ないないづくしの文字通りゼロからの出発だった。

 営業、サービス、経理、輸入業務、採用など、すべてをこなした。馬力にまかせて働きに働いた。「鈍感力」全開だ。4年間で、ポーランド、チェコなど、主要国で販売会社を立ち上げた。経営力が一気に身についた。以後、彼はマネジメントの道を歩むことになる。

 課長となって帰国した。本社の経営企画のポジションでCFO(最高財務責任者)のサポート役だった。その後、社長の安藤国威のサポート役を申しつけられた。“カバン持ち”だという。彼は、「しまった、後手に回った」と安藤の元を訪れた。

「安藤さん、お願いしますよ。僕、そろそろ現場に戻してほしいんですよ」と、直談判した。2人は、押し問答になった。「じゃあ、1年だけですよ」と、彼は妥協案を提案したが、安藤は納得しなかった。

「だめだよ、1年じゃあ。3年はやってほしい」「じゃあ、間をとって2年」

■言いたいことを言う

 彼は、「ソニーに長くいようと思ったことがなかった。いまでもそうです。だから、上の人に対して、言いたいことを言ってきました」と、前置きをして、次のように語るのだ。

「大好きな出身地の博多に、ずっと帰ろうと思っています。その覚悟があるから、これっぽっちも会社に気をつかわなかった」

 帰国後、東京に家を建てたが会社のローンを使わず、銀行ローンを組んだ。「会社からお金を借りると、自分と会社の対等な関係が崩れかねないから」という理由だ。徹底している。

 結局、3年務めた。ただ、グローバル企業の経営者のそばで仕事をすることで得たものは大きかった。安藤から「アメリカにいってこい」といわれたときには、40歳になっていた。(文中敬称略)(ジャーナリスト・片山修)

>>【後編「ソニー常務、朝7時に出社し一人でゲームをやりまくった過去も 現場・顧客視点でものを見ることの大切さ」へ続く】

AERA 2022年12月26日号より抜粋

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