こんな一節がある。
「二〇一一年、ぼくたちは震災を機に希望を持った。復旧に向けて連帯感は強かったし、経済原理の独裁から逃れられるかと思った。五年たってみれば、「アラブの春」と一緒で一時の幻想、「災害ユートピア」にすぎなかったように思われる」(〈抵抗する若者たち〉より)。
このコラム自体は、シリアに関する内容が主で、そして2016年に書かれたものだが、本書に収められた2013年から2017年のコラム全体を覆う時代の空気は、「アラブの春」後、「災害ユートピア」後のものと言えるだろう。冒頭に置かれるコラムは〈三回忌の後で〉というタイトルで、まさに3・11から二年後が書かれるのだが、「近未来の明るい絵」を信じ込ませようとする「先天性の健忘症」の政治家たちには懐疑的な目が向けられる。幻想はないが、新たな希望も見えない。苦しい時代だなあと思う。
「近未来の明るい絵」といったって、現実がともなわないのに描きようもないから、せいぜいベタベタと原色で塗りたくろうとするのは「オリンピック」なわけだけれど、「汚染水の影響は完全にブロックされている」という首相の嘘発言で招致したなけなしの希望も、ほどなくして、とんでもなくお金がかかるのに実用的でもない「新国立競技場」の問題で躓く。ああ、そうだった。連日、膨大な建設費についての報道が、新聞やテレビを埋め尽くしていたころを思い出す。
2013年から2017年といえば、「秘密保護法」「安保関連法」「共謀罪」という、日本を戦前に引き戻し、憲法をないがしろにして戦争に向かわせるような法律が、次々、しかもすべて強行採決によって通過していった。きっと将来は、歴史家だけでなく未来を生きる人々によって、厳しい検証の対象に晒される5年間になるはずだ。そのときには、本書は真摯に読まれる参考文献になるのだろう。
〈死にかけの三権分立〉というコラムがある。2015年7月のものなので、ちょうど「安保関連法」によって「集団的自衛権の行使」が可能になるかどうかを審議中だったころだ。少し引用してみる。
「日本では国の根幹にかかわる問題で司法府が憲法判断を放棄してしまった。1997年の段階で95条は死んだ。今は九条が死にそう。/最近になって立法府も死にかけてきた。民意を反映しない選挙制度が一強多弱の体制を生み出し、それにうんざりした国民の無関心が投票率を下げ、小選挙区では全国民の24%の票を集めたにすぎない自民党と同じく17%の公明党が絶対多数になった。(略)今の日本は行政府の独裁という状態である」