先述した過去の人気タレントたちと比べても、マツコ・デラックスは独特の存在感を放っている。それは、大きな身体を女装で包んだ外見だけのことではないように私には思える。
今回の『マツコの“何が”デラックスか?』では、そんなマツコ・デラックスの魅力の本質を探ろうとした。怒るマツコ、食べるマツコ、妄想するマツコ、演技するマツコ、コメントするマツコ、そして子ども時代を懐かしむマツコ……。テレビのなかで見せるさまざまな姿をもとにした本書の考察から、私たちがわかったつもりでいるのとはひと味違うマツコ・デラックス像が見えてくるはずである。
また本書は、タレント論、人物論であると同時にひとつの日本社会論でもある。私自身社会学者として、「私たちはなぜ、いまマツコ・デラックスを求めるのか?」という点に常々関心があったからである。そこでキーワードとして浮かび上がったのが、「端境期」という言葉であった。
マツコは、自分が求められる理由をいまが「端境期」、つまり時代と時代の転換期にあるからだと分析する。
「あたしみたいな存在は本当にこう端境期に生まれたスケープゴートであって、こんなものがエンターテインメントだとあたし自身は思ってない」(『SWITCH』2016年5月号)
このような自虐的にも見える自己認識は、マツコ自身がマイノリティであることと深くつながっているだろう。
先ほど書いたように、マツコ・デラックスが過去の人気タレントの誰とも似ていない理由を考える際、やはりその点を抜きに語ることはできない。ゲイであり、女装家であるマツコは、性的少数者に属する。そうした存在が、タレントとしてここまで大衆的な人気を博することは、おそらく前例のなかったことだろう。
だがそうだとすれば、マイノリティであるマツコ・デラックスがマジョリティのメディアであるはずのテレビにおいて、なぜこれほど人気を集めることができたのか? このマイノリティとマジョリティの重なりは、なにを意味するのか? それは次のように答えられるに違いない。
時代の転換期である「端境期」とは、社会の既存のしくみや価値観そのものが再考を迫られる時期でもある。これまで常識とされてきたマイノリティとマジョリティのあいだの線引きについても例外ではない。社会の多数派に属することを当たり前と思ってはいられず、多数派のメディアだと思われていたテレビも方向転換せざるを得なくなる。さらに最終的には、マジョリティかマイノリティかという二分法を超えて、誰もが一度は個に立ち戻り、自分という存在を省みることを求められる。
一方マツコは、自分が果たす役割をこんなふうに表現する。「あたしって、次の何か大きな潮流だったり、みんなが目指す何かが見つかるまでの繋ぎだと自分で思っている。あたしは所詮すべての繋ぎなのよ」(同前誌)
つまり、マツコ・デラックスという存在自体が、過去を見直し、あるべき未来を発見するよう私たちに促す「繋ぎ」、すなわち「端境期」そのものを具現するメディアなのである。そして叶うことなら、本書もまた、読者にとってそのような「繋ぎ」になれるよう切に願っている。