2006年に秋篠宮悠仁親王が誕生して以来、下火になった感のある女性天皇容認論。原武史『〈女帝〉の日本史』は古代から現代までを俯瞰して、なぜ日本には「女帝」を是とする文化が育たなかったのかを探った注目の書だ。
思い出してみると、日本史に登場する女性の権力者はけっして少なくはないんですよね。
7~8世紀の日本には6人の女性天皇がいたし、また女性のほうが長命であったこともあり、〈古代から近代まで、女性天皇や皇后、皇太后、将軍の正室や母などの女性権力者=〈女帝〉は連綿と存在しました〉と著者はいう。
平安時代の摂関政治の下では、幼帝の後見人として生母である藤原家の女性たちが大きな権力を握り、鎌倉時代以降の武家社会においても、源頼朝の妻として権勢をふるった北条政子、将軍足利義政の正室として夫以上の政治力を発揮した日野富子らがいた。
そんな伝統が、中世から近世に移行する過程でなぜ断ち切られたのか。夫の死後、家を取り仕切る力を持った中世の後家に比べ、近世の北政所には夫の菩提を純粋に弔う役割が課せられた。
転機となったのは、秀吉の側室である淀殿だったという。大坂の陣で淀殿を中心とする豊臣氏を滅ぼした徳川家康は、女性が権力を持つことを恐れて御台所を置かず、側室にも身分の低い女性を選んだというのだから、もう。
世界的に見ても女性の政治家が極端に少ない日本。本書を読むとその源流が見えてくる。
近代以降、女性の権力者は国を滅ぼすという言説はやんわりと継承されてきた。〈女性の権力を「母性」や「祈り」に矮小化してしまう傾向〉が、女性を権力から遠ざけているのではないか。
そして〈権力をもった女性が否定的に語り継がれていく場合、非常に淫乱な女だったという話が再生産されるわけです〉。道鏡とのスキャンダルで有名な孝謙(称徳)天皇しかり。淫婦の噂が立った淀殿しかり。女性政治家の不倫が過剰に取りざたされる現在も、事情は変わっていないのよね!
※週刊朝日 2017年11月10日号