米ローリングストーン誌2011年の別冊『THE BEATLES; 100 GREATEST SONGS/ビートルズ名曲100選』は、そのタイトルが示すとおり、4人が約8年にわたった公式活動のなかで残した約200曲のなかから100曲を選び出し、制作にまつわるエピソードなどとともに紹介したもの。この国の一般的なビートルズ・ファンの大半が大好きなはずの《ミッシェル》が外されているなど、ローリングストーン誌らしさが強く打ち出された100選で、個人的には「ほぼ納得」の内容だった。
今回取り上げた、ジョージ・ハリスン作/リード・ヴォーカルの《ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス》はそのなかの10位にランクされているのだが、それもほぼ納得。ベスト10圏内ぎりぎりというところが、ジョージの性格や人柄、バンド内でのポジションともつながるようでいい。
1968年晩秋発表の『ザ・ビートルズ(通称、ホワイト・アルバム)』サイド1の7曲目に収められたこの名曲のコード進行とメロディを、彼は、インド滞在時に得たといわれている。そして『易経』からの影響もあって、本をぱっと開いて最初に目に飛び込んできたフレーズからインスピレーションを得て歌詞を書き、タイトルを決めたのだそうだ(多分にユング的でもある)。そのようにして書き上げた曲にジョージは強い手応えを感じていたのだが、しかし、ジョン・レノンとポール・マッカートニーはあまり真剣に受け止めてくれなかったらしい。
『ザ・ビートルズ』はビートルズ崩壊の第一段階でもあったわけであり、そういったバンド内の雰囲気も少なからず影響していたはずだ。結局、7月と8月のレコーディングではいい結果が得られず、9月6日に3度目のセッションが行なわれることになる。「4度目はないだろう」。そう考えたに違いないジョージは、カンフル剤か起爆剤のようなものとして、親友のエリック・クラプトンを招くことを思いつく(本サイトのクラプトン編第14回https://dot.asahi.com/musicstreet/ column/ericclapton/
2014082000016.htmlで、その日どういうことがあったのか、本人から聞いた言葉をもとに紹介している。よかったら読んでみてください)。
著名なアーティストが契約の枠を超えて他のバンドやアーティストの録音に参加することは、まだ一般的ではなかった。極端にいえば、業界的にはほぼ御法度。しかも相手はビートルズ。ジョージが運転する車での移動中、想定外の決断を告げられたクラプトンは驚いたという。乗り気にはなれなかったが、最終的には、クリーム脱退を決意した直後という精神状態があと押ししたようだ。
アビィロード・スタジオには、少し前に彼がジョージにプレゼントした赤いレスポールが置かれていた(57年製のゴールドトップを以前のオーナーだったリック・デリンジャーがギブソン社に依頼してリフィニッシュしてもらったもの)。クラプトンはそこでそのレスポールをふたたび手にすることとなり、1音半ベンディングを多用した、じつに表情豊かなでエモーショナルなソロを残した。ビートルズのカラーを逸脱しないようにという意識があったはずだが、それはやはり、クラプトン以外の誰にも弾くことができない極上のギター・ソロだった。
1971年夏の『コンサート・フォー・バングラデシュ』、1991年暮れの日本公演で、二人はギターを抱えて並ぶ形で《ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス》が演奏していて、どちらもライヴ作品化されている。ただし前者はクラプトン最低迷期の録音であり、聴いていて辛いものがあるが、後者では、幼い息子が事故死からまだあまり時間がたっていなかったにもかかわらず、力の入ったソロを聞かせていた。ジョージ・ハリスン死去から1年後の2002年11月、ロイヤル・アルバート・ホールで開催された追悼コンサートでは、音楽監督を務めたクラプトンとポール、リンゴ・スターが顔を揃えた編成で《ホワイル~》を演奏している。
スタジオ録音のカヴァーでは、ジェフ・ヒーリー、ピーター・フランプトンがお薦め。また2004年度ロックンロール・ホール・オブ・フェイム授賞式での、トム・ペティ、ジェフ・リン、スティーヴ・ウィンウッド、息子のダーニ・ハリスン、プリンスらが聞かせたライヴもいい。YouTubeの公式チャンネルで観られるはずだが、3分近いプリンスのソロは呆気にとられほどの素晴らしさ![次回7/26(水)更新予定]