
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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戦争の記憶がだんだん薄れてゆく。直接に戦争を経験した人たちがしだいに鬼籍に入り、戦争とはどんなものだったかを伝える言葉が届かなくなる。
私は1950年生まれなので、戦争を知らない。でも、父母たちは戦中派である。父は満州事変の年に満州に渡り、敗戦後1年して北京から帰ってきた。中国でどんな仕事をしていたのか、詳しくは語らなかったけれども、晩年に書いたエッセイに中国人の親日派を組織する宣撫工作にかかわっていたことが書いてあった。父の仕事仲間だった中国人たちは「私の友人であったという理由でみな殺された」という文章が痛ましかった。
もう一つ思い出すことがある。私が子どもの頃は暮れになると、どの家も国旗を掲げた。私の家でも年末になると父親が押し入れの奥から汚れた日の丸を取り出し、黄色と黒に塗り分けた竹竿をつないで、上に金のガラス玉をつけて玄関に国旗を掲げた。私は子どもだからその祝祭的な手順が好きだった。ある年、暮れになったので、父に「日の丸はいつ揚げるの?」と訊いたら、父が遠くを見るような眼をして「もういいだろう」と言った。季節のイベントが一つなくなったので、私はずいぶん気落ちしたことを覚えている。同じ頃に近所の家も日の丸を揚げなくなった。別に「国旗掲揚は軍国主義的だから止めろ」というようなことが言われるようになったからではないと思う。
ずいぶん経ってから、それが1958、59年の出来事だったことを思い出した。そして「もういいだろう」という父の言葉に「大日本帝国の十三回忌も終わったことだし」というフレーズが続くのではないかということに思い至った。
明治の先人が築いた近代国家が無謀な戦争によって瓦解して、かつては世界五大国の一角を占めた帝国がアメリカの属国にまで零落したことに元「帝国臣民」たちは傷つき、それを恥じたのだと思う。でも、戦後13年くらいが経った頃に、もう過去の栄光を振り返ることは止めて、日本国憲法の下で平和で民主的な国家を築こうと決意したのだと思う。でも、彼らの心の傷も、未来の日本への期待も、もう語り伝える人がいなくなってきた。
※AERA 2025年9月1日号
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