
4月には激戦地のひとつで「玉砕の島」と呼ばれた小笠原諸島の硫黄島を、6月には激しい地上戦が行われ日米両軍と住民らおよそ20万人が犠牲になった沖縄と、被爆地である広島を、そして7月に訪問したモンゴルでは日本人の抑留犠牲者を悼む慰霊碑を訪れ、祈りを捧げた。
この日、日本側の遺族でつくる「硫黄島協会」事務局長の八巻功さん(80)も全国戦没者追悼式の会場で参列していた。
八巻さんの父・明さんは、28歳のときに硫黄島で戦死した。
「父からは、『餅なしの正月を迎えた』と書かれた葉書が届きましたが、政府の記録では、玉砕前の1月4日に亡くなったそうです。遺骨はいまも見つかりません」
1945年2月に上陸した米軍と島に立てこもる栗林忠道陸軍中将率いる日本軍で激しい戦闘が行われ、日本側はおよそ2万人、米国もおよそ6800人が戦死し、「玉砕の島」と呼ばれた。
東京の本土から南に約1200キロに浮かぶ硫黄島は、東西8キロ、南北4キロの小さな孤島だ。日本には、気象庁が指定する111の活火山があり、硫黄島もそのひとつ。島全体の隆起が続き小さな噴火がしばしば起きている。
「島に一歩足を踏み入れると、まず地熱の高さに驚きます。小川すらない渇水の島ですから、ちょっと地面を掘ると土埃がモウモウと舞う。18キロもの地下トンネルを駆使し、1カ月余りにわたる徹底した持久戦が行われました。岸壁や地下に掘られた壕の跡に入ると、サウナのように熱がこもっている。水を求めてひどい渇きに苦しんだ。ここを訪れる遺族は、戦死した肉親のためにみんな水やお茶を持ってゆくんです」
4月に陛下と雅子さまが硫黄島を訪れた日は、雨だった。
硫黄島島民平和祈念墓地公園には、日米すべての犠牲者のための「鎮魂の丘」が広がる。公園の敷地内には、軍属として徴用されて犠牲になった82名の島民の名が刻まれた碑や2万人の将兵の霊を慰める碑「天山慰霊碑」がある。
石碑の上部には、暗い地下壕の中で日光を思い、飲料の雨水を激しく求めた戦士の心境を思い、天窓が設けられている。
