
夏の甲子園も熱戦たけなわだが、その一方で、「最近、甲子園のスターが少なくなった」の声も聞かれるようになった。甲子園で注目を集めても、プロ入り後は期待するほどの成績を残せない選手が相次いでいるからだ。プロでの飛躍が期待されながら、思わぬ不運などで持てる力を十分発揮できなかったスター選手たちを振り返ってみよう。
【写真】身長163センチ、最速120キロのストレートで甲子園を席巻したのがこの投手
まず、平安高時代の97年夏の甲子園で準優勝投手になった川口知哉の名が挙がる。
春夏連続で甲子園にやって来た高校ナンバーワン左腕は、2回戦の高知商戦で藤川球児(現阪神監督)に投げ勝ち、被安打2、奪三振11の完封勝利を飾ると、お立ち台で「次は完全試合を狙います」の大胆発言。コメントの面白さも相まって、“ビッグマウス”の名をほしいままにした。
ドラフトでは「(意中の)オリックス以外ならトヨタ自動車」と逆指名し、4球団競合の末、見事オリックスが交渉権獲得。早速「僕は投手だから、背番号10番台が欲しい」と、11番をリクエストし、「(現役の)佐藤(義則)さんが着けている? 知ってますよ」とチームの大先輩をも恐れぬ放言が話題を呼んだ。
だが、順風満帆だったのはここまで。1年目に当時の2軍投手コーチのアドバイスで、軸足の左膝を折る動きをなくした新フォームに変えたところ、上半身と下半身がスムーズに連動しなくなり、無理に合わせようとして左肩を痛めてしまう。投げ方がどんどんわからなくなり、イップスになった。
2001年8月4日のウエスタン、広島戦ではリーグ新の1試合6暴投、同29日の阪神戦でも初回にリーグ新の7連続与四球、1試合最多の15与四球を記録するなど、苦闘の日々が続く。
結局、在籍7年で1軍は登板わずか9試合、投球回数12回の0勝1敗、防御率3.75という不本意な成績で現役引退となった。
「もう野球はいい」と家業を5年ほど手伝っていたが、その後、中学生の指導や女子プロ野球の監督、コーチ、母校・龍谷大平安のコーチを経て、今年4月から新監督に就任。今度は指導者として甲子園出場を目指している。