私は今、手放すばかりだ。思考も感情も、いつからか強めることはやめて、手放し続けている。どちらかというと、自分の気持ちは大切にしてきたし、考えることにおいてもそうだ。「自分で考える」ことの大切さを説かれた時代を生きてきたので、自分で考え抜いてきた。主体的に考えず、自分で選択し判断しなければ、自分の人生は歩めない。しかし、自分で考える人間は、自分の意思や思考の奴隷だ。つまるところ、私は自分からも解放されたかった。

 望む望まないにかかわらず、今ではそういった主体性を手放してしまった。自分で主体的に考えることはきわめて少なく、すべては自ずと考えられ、感じられる。つまり、私は感情としての主体、思考としての主体はほとんど持っていない。脳が考えて胸が感じているだけだ。それぞれに考えられたこと、感じられたことの受け手に過ぎない私。

 知識も感情も私の所有物というより、公共のものに近い。すべては私という場に浮かび上がってくるものであって、考えも気持ちも私ではない。意思や人格ですらそうだ。人格は私ではない。

 ただ瞬間的に強く繋がることはある。人と話している時などはそうだろう。まるで自分が主張している時があるし、自分で考えて感じている時もある。それでも、一人きりになって帰り道を歩きだすと、もうそのすべてを手放しはじめている。一つの息の上に、感情や意思や人格が乗っては抜けていく。一息ごとに抜けていって、最後には私のいない、空っぽな肉体が残るだけだ。

 その肉体の空っぽの部分には本当になにも入っていない。もちろん、内臓も入っていない。その空間が完全な真空になった瞬間、物語がそこに入ってくる。それを書いている。

 おそらく、プロットを作らずに書いている作家のほとんどはこうやって書いている。自覚している人もいれば、無自覚な人もいるだろう。書き手だけではない。読者もそうだ。物語を真に読んでいる間、自分がいない。だから、物語が入ってくる。

 私の場合、この肉体が生きている間は、入ってきた物語を書き続けることになっているらしい。私に選ぶ権利はない。私には上司はおらず、部下もいない。今は他者に従うことも自分に従うこともほとんどなくなったが、因果なことにインスピレーションに従って生きることになった。

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