東京の本社の目の前に架かっている日本橋は高速道路に覆われて、大改築へ動き出す。本社ビルも改築し、15年後に新ビルへ。もちろん、見届ける(写真/狩野喜彦)
東京の本社の目の前に架かっている日本橋は高速道路に覆われて、大改築へ動き出す。本社ビルも改築し、15年後に新ビルへ。もちろん、見届ける(写真/狩野喜彦)
この記事の写真をすべて見る

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探りますAERA2025年8月4日号より。

【写真】國分晃社長の学生時代はこちら

*  *  *

 身が引き締まる。ありきたりの言い方のようだが、まさに、全身で実感した。

 1991年12月、祖父の11代國分勘兵衛氏の葬儀のときだ。東京都中央区の築地本願寺で、12代勘兵衛となる父に続き、祖父の遺影を手に学生服姿で歩いた。慶應義塾大学法学部2年生で20歳。祖父が率いていた食品卸の国分(現・国分グループ本社)の取引先や社員らが、境内を埋めている。その数に、驚いた。2千人はいただろう。

「これは、えらいことになった。おじいちゃんも死んじゃったから、父が継ぎ、その次は自分なのか」

 いつか社長を継ぐ、との気持ちは、漠然とはあった。それが、一気に具体性を持つ。「もう、あまり時間はない」と頷いた。創業三百年を超える老舗の看板の力を頼らず、13代目にふさわしい人間になろう。市場の実情と合理的な判断を大事にするという、國分晃さんのビジネスパーソンとしての『源流』の水源が、生まれた。

 ほどなく、父に「一度、外で学んだほうがいい。5年やる、何をしてもいいから5年で帰ってこい」と言われる。では、5年をどう使うか。社長を継ぐことは決まっているので、それには米国へ留学してMBA(経営学修士)を取ることが必要だ、と考えた。早速、英語の勉強を始める。

米国留学の道と別に日本で就活もして父に叱られ内定先へ

 大学4年生になって米国5校のMBAコースへ願書を出し、3校に合格した。でも、学生気分からか、横道をのぞく。日本での就職活動だ。父が勧めた世界最大級の食品・飲料企業のネスレ(本社・スイス)の子会社・ネスレ日本を受けた。内定が出ると、父に「内定を蹴ってはいかん。そんな失礼なことをしてはいけない」と言い渡される。

次のページ 「これは人生の巡り合わせだ」と思った経験が、何度かある