94年4月にネスレ日本へ入社。本社が神戸市にあり、大阪支店営業部へ配属された。商品の見本を積んだ車を運転してスーパーを回り、店頭に陳列していく。住まいは会社の補助もあって、兵庫県芦屋市の阪急電鉄芦屋川駅のすぐ横のマンションだ。
実は「これは人生の巡り合わせだ」と思った経験が、何度かある。その一つが、翌95年1月の阪神・淡路大震災。マンションは大きく揺れたが頑強で、命はつながった。でも、周囲は火事も出て、大きく被災する。1カ月ほど被災地で過ごしていたら、会社から「國分君はどうせうちの会社に長くいないし、もう東京へ帰りなさい」と言われた。東京へ異動となり、液体飲料事業部でマーケティングチームへ入る。
ここでも「人生の巡り合わせ」が続く。上司がカリフォルニア大学ロサンゼルス校を出た米国人で、1年半、英会話を鍛えられる。父から猶予された5年が減ってきて「そろそろ留学しよう」との思いが強まっていく。
前に受かった大学院のほかにもう1校、米ノースウエスタン大学の経営大学院ケロッグ校への願書をつくり、ネスレ日本の上司ら2人に推薦状を頼んだ。同校は、関心を強めていたマーケティングで名高かった。上司の推薦状は、とても力があったようだ。時を置かず、入学許可が届く。
96年8月、シカゴ北のエヴァンストン市にあるケロッグ校へいった。1学期に4、5科目を取得し、授業が各週に2回。講義と事例研究が半々で、どれも膨大な専門書講読の宿題が出た。グループで発表する課題もあり、寝る間もない。ビジネスの基本的知識を、たたき込んでもらった。
MBA取得まで2年弱、大きかったのが、日本で連日あった「社長の息子」「将来の社長」への配慮や忖度からの解放だ。「国分」の世界から離れた日々は、自分で調べ、考え、選んで決める力を育て、「すべての言動の責任は自分で負う」と創業家を継ぐ自信も生み、『源流』が流れ出す。
帰国して、98年9月に国分へ入社する。慶大を出て4年5カ月。父がくれた「5年」に間に合った。東京・日本橋の本社へいくと、財務部副部長の辞令が出た。とくに任務はなく、取引銀行へ挨拶にいく程度で過ごす。