“サイコパス”とは別の顔?
童磨は自分自身の「感情の欠落」に自覚的だ。相手に合わせようとしている瞬間はまだしも、鬼としての行動は冷淡そのものである。だが、一見するとサイコパスにも見える童磨は、こんなことも主張している。
誰もが皆 死ぬのを怖がるから
だから俺が食べてあげる
俺と共に生きていくんだ 永遠の時を
(童磨/16巻・第141話「仇」)
たしかに「食べること」には、捕食された対象を吸収するという意味合いが含まれており、「一体化」を指すことがある。童磨による人間の捕食は、口から摂取するだけではないため、その意味合いはより強まるだろう。
ならば、「信者を喰うこと=信者との一体化」という童磨の思考は、理論上は成り立つともいえる。ただ、喰われる側には、痛みがあり、恐怖があり、悲しみや絶望がある。「感情」が欠落している童磨には、それが理解できない。そもそも、理解しようとする意思もない。
童磨が考える「救い」
童磨は人を殺害・捕食する理由として、「誰もが皆 死ぬのを怖がるから」だと主張する。童磨にとって「死」とは、「死んだら無になるだけ 何も感じなくなるだけ」(16巻・第141話)のものなのだ。それを本気で言っているのだとすれば、「何も感じない」童磨は、死んでいるのと同じような状態にあるということになる。
幼少期に親から新興宗教の教祖という役目を背負わされ、毎日のように大人たちから絶望の声を聞かされてきた童磨。そして、両親の無理心中を目撃した童磨……「教祖」として生かされた彼に幸せな瞬間はあったのだろうか。
感情を持つがゆえに怒りと悲しみに振り回され、苦痛に耐えきれない“弱き人間”たちをたくさん見てきた童磨は、せめて彼らを「感情のない自分」と一体化させることで、辛苦から救ってやろうとしていたのかもしれない。
童磨が「生の意味」を知るために
童磨は“喰って”自分の中に取り込んだ信者たち「皆と」、ともに幸せになることを望んでいると言った。しかし、それは「人としての生の喜び」とは異なるものだ。童磨が主張する「救済」には、少なくとも「停止」以上の救いはない。
童磨が「本当の感情」を手にした時、彼の「救済」への思考は変わるだろう。胡蝶しのぶとの決戦は、童磨を変える機縁になりうるのか。劇場版「無限城編」では、すべてではないが、その答えの一端が示されている。ぜひ劇場で確認してほしい。
《拙著『鬼滅月想譚』(7月18日発売)では、童磨の“特別な人”になった、蟲柱・胡蝶しのぶとの戦闘の意味についても詳述している》
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