苦難のときも明るく(写真:本人提供)
苦難のときも明るく(写真:本人提供)

■本社工場売却で相談に乗った組合員らの将来

 難局は、希望退職の問題だけで終わらない。会社は、東京・吾妻橋にあった本社工場の売却も表明した。キャッシュを手に入れ、資金繰りを楽にするためだ。これも、組合は了解せざるを得なかった。

 当時、工場で働く人たちは朝日麦酒へ入社するのではなく、工場と雇用契約を結んでいた。だから転勤がない一方、もし工場がなくなると辞めるか、別の工場へ移籍するしかない。毎晩、工場の人たちと会い、将来の相談に乗った。思うようにいかなかった例も、少なくない。この体験も『源流』に合流する。

 本部役員は4年程度の見通しだったのに、後任がこなくて、89年秋まで10年近くやった。ナンバー2の書記長も務めた。それなりの規模の企業の経営者で労組役員を経験したことがある人はいても、これほど長くなった例は珍しいだろう。厳しい年月だったが、道の進み方を学んだ。

 1951年11月、長野県松本市で生まれる。両親は公務員で、5歳下の弟と4人家族。キリスト教系の幼稚園へ通い、教会に入った瞬間、独特の雰囲気を感じた。賛美歌を歌うと、別世界にきた気がした。園児たちに寄り添ってくれた先生は「たけみつ」と言い、家族以外の名前を覚えた最初の人だった。

 市立中学校と県立松本県ケ丘高校では、長身を生かしてバレーボール部で過ごす。東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子チームが金メダルを獲り、バレーボール人気が高まったころだ。

 大学は青山学院大学法学部。表参道交差点の西で、組合本部があったところと逆方向だが、同じ青山界隈。「青山」は、小路さんの歩みのキーワードになる。青山学院はプロテスタントのメソジスト派で、教会がなくて、地味な講堂に礼拝場がある。入学式にいったとき、それを目にして、幼稚園時代を思い出す。そして、賛美歌に「再会」する。クリスチャンにはならなかったが、キリストの教えが無意識のうちに生き方の一つになっている。

 1975年4月、朝日麦酒に入社。衣・食・住・金融の分野を1社ずつ受け、最初に内定をくれた朝日麦酒を選ぶ。大学受験でも、四つ受けて最初に合格したところに決めた。これも縁、縁を大事にしたい人間だ。

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